地租改正が完了した明治一〇年前後から、福岡県は勧業政策を積極的に進めていった。県の勧業政策の中心は福岡農法による稲作改良と養蚕の普及であった。福岡農法というのは、西南馬耕農法と寒水浸・土囲法、蟹爪除草、正条植、肥料の多投からなっていた。西南馬耕農法というのは、牛馬を使用して無床犂(抱持立犂)で深耕するものであった。寒水浸というのは小寒(陽暦の一月六日頃)の頃から清明(陽暦四月五日頃)の頃まで、種籾を俵に入れて池や川の水に浸して、優良な種籾を選別する方法である。こうしておけば、「軟弱ナル分ハ腐敗シ強壮ナル分ノミヲ種ニスル」(福岡県第二課「稲作改良法試験手続第一号」明治一二年一月、「石川家文書」ア四〇)ことができるというのである。土囲法というのは、寒水浸と同様に小寒中を目途として種籾を細砂に混ぜて俵に入れ、水に浸した後土中に埋めて優良種籾を選別するというものである。福岡県はこうした農法で日本全国から脚光を浴びていた。
福岡農法を推進する上で大きな役割を演じたのは老農といわれる人々であった。村の指導者であり、篤農家であった彼らを、県は勧業係として登用し、勧業政策を推し進めていった。勧業係はほぼ郡ごとに一名(京都・仲津郡では両郡から一名)が選ばれた。京都・仲津郡では堤兵蔵(別の資料では堤半蔵、行事村)が初代を務め、後に秋満慎吾(今井村)に替わった。二人はいずれも大庄屋格の家柄であった。
福岡農法といっても、「田畑ヲ耕作スルニハ総テ牛馬ヲ用フ」(『福岡県農事調査』)と記されているように、牛馬耕はこの豊前地域でも普及していたものの、寒水浸や土囲法はもともと筑前早良の老農・林遠里が提唱したもので、この地域で普及し始めたのは県が普及に乗り出した明治一二年頃からであった。この頃から県は全県の勧業委員や関係郡吏が参加する勧業大集会や豊前、筑前、筑後の地域ごとに勧業小集会を開催し、情報を交換すると同時に、様々な取り組みを郡や勧業係に促した。これを受けて、京都・仲津郡でも農談会が開催されたり、寒水浸や土囲法などが各村に設けられた試験人などによって実施されたりした。また、公設種苗交換会が開催されるなど種籾の交換も行われた。