表3 農業戸数の推移 | ||||
年次 | 京都郡 | 福岡県 | ||
戸数 | 指数 | 戸数 | 指数 | |
明治26年 | 7,018 | 78 | 130,731 | 80 |
明治32年 | 7,106 | 79 | 138,580 | 85 |
明治38年 | 9,007 | 100 | 163,411 | 100 |
明治43年 | 8,833 | 98 | 160,704 | 98 |
大正4年 | 8,208 | 91 | 154,534 | 95 |
大正9年 | 7,865 | 87 | 148,356 | 91 |
大正14年 | 8,003 | 89 | 147,904 | 91 |
昭和5年 | 7,992 | 89 | 149,840 | 92 |
昭和10年 | 8,049 | 89 | 148,078 | 91 |
昭和15年 | 7,582 | 84 | 141,281 | 86 |
出典:『福岡県統計書』 | ||||
備考:指数 明治38年=100 |
農業生産物の状況を見ると、米が八〇%、麦が一一%でこの時期の農産物は依然主穀が圧倒的比率を占め、工芸農産物や養蚕はこの地域ではまったく振るわなかったことがわかる。
そ菜や果樹栽培がなかったわけではない。すでに仲津村長井の大根は明治末期「頗ル盛況ヲ極メ年々壱万円内外ノ移出ヲナシツツアリ」(『京都郡是』三八頁)とされていたし、柿やみかん、桃、ぶどう、梨などが栽培されていた。しかし、その多くは郡内の「需要ヲ充タス能ハズ年々他地方ヨリ移入セル」(『京都郡是』)状態であった。
一方、米や麦の生産量は明治前期と比べると大幅に増加した。すなわち、『福岡県統計書』によれば、明治一六年京都・仲津郡の米穀生産高は七万七〇〇〇石であったが、明治四三年には一〇万二〇〇〇石に達していたのである。
この生産量の増加は何よりも土地生産性の上昇によってもたらされた。土地生産性がどれほど上昇したかを見るために粳(うるち)米の反当たり収量(反収)を見てみよう。図2は五年ごとの福岡県と京都郡の反収を示したものである。これによると、京都郡の反収は県平均よりもかなり低く、明治二八年頃まで安定しないが、以後急速に上昇していることがわかる。
こうした反収の増加は、この間の農事改良、品種改良、施肥、新たな農具の普及、耕地整理などに負っている。
明治中期頃まで脚光を浴びた福岡農法は牛馬による深耕と多肥投下によって一定の成果を上げた。しかし、その核心である種籾の寒水浸や土囲法は、福岡県勧業試験場(福岡農学校、後福岡県農事試験場)を拠点とする横井時敬らの西洋農法によって批判され、明治三〇年代には塩水選法に取って代わられた。明治中期以降、県は農会を中心にこの塩水選をはじめ緑肥栽培、稲正条植、石灰節用、耕地深耕、堆肥製造などを最重要農事改良事項として奨励した。肥料の多投は、次第に金肥への依存を引き起こした。こうした金肥への依存は農家経済を圧迫するとともに、地力そのものを損ねかねないほどの過度の石灰使用を生み出していた。「れんげ」などの緑肥栽培や堆肥製造の奨励と石灰の節用はこうした問題に対処するものであった。もっとも、奨励したものの明治末期には京都郡の緑肥栽培は間作二二%、裏作三六%ほどであった。一方、稲正条植は同郡では九割以上、また塩水選は九七%の実施率で、広く普及していた。耕地深耕では、無床犂から短床犂への改良が図られ、京都郡内や村々で競犂会や深耕品評会が開催されている。
稲の品種改良も盛んに行われ、作付け品種は明治期を通じて大きく変化した。当時多様な品種が作付けされていたが、明治三〇年代には多収性の神力が中心となっていた。