稲作には水が不可欠である。行橋地域は今川、祓川、長峡川が貫流しており、灌漑用水はその多くをこれら河川に依存している。しかし、今川を除き集水面積が狭小で、水量がさほど多くないため、この地域ではしばしば用水不足を引き起こし、旱魃の被害にあってきた。このため行橋地域では、江戸時代を中心に河川灌漑のために井堰が設けられる一方で、溜池が次々に造成されていた(昭和四〇年頃までの溜池灌漑面積の四割強の溜池がこの時期に造成されている)。明治前期においても、溜池灌漑面積の一二%に当たる溜池が造成されている。
一方で、これら河川の下流域は排水の悪い湿田地帯であった。京都郡の湿田は二九〇〇町に上っており、その多くが行橋地域に集中していた。行橋地域は福岡県でも最も土地生産性の低い地域であったが、低生産性を規定したのは、自然的条件で言えば、この排水不良であった。排水設備の整備など土地改良事業のためには多額の資金を必要とする。明治三二年の耕地整理法を受けて、福岡県でも明治三四年から耕地整理事業への補助が実施された。この事業は当初は県農会に委嘱してなされたが、明治四〇年には県の直接事業とされた。
京都郡でも仲津村稲童の一三町を皮切りに、郡や郡農会の主導の下に耕地整理が開始されたが、明治四四年末までに完了したのは一七二町ほどであった。しかもその多くは開墾で、排水事業にいたっては明治末期までに完了したのは祓郷村有久の三町ほどにすぎなかった。排水事業を中心とした耕地整理が本格化するのは大正期に入ってからであり、京都郡の耕地整理完了面積は大正七年には三二九町、大正一二年には七二一町に達した。