豊前米と穀物検査事業

94 ~ 96 / 840ページ
 福岡県の米は、かつては筑前の横浜米(糸島米)、筑後の上郡米(浮羽米)が優良米として大阪市場などでそれぞれ第一位、七位の地位を占めていた。行橋地域の米も「往古豊前米ト称シ声価殆ンド全国ニ冠タル」(『福岡県農事調査』)状況で、明治二〇年の東京回米問屋玄米品評会でも二位を占めたこともあった。しかし、明治末期になると福岡県米は「手入れが悪いため今日では全国中で悪い安い米と云ふ様になって」(『米穀検査の心得』福岡県、明治四四年)いた。危機感を抱いた県当局は明治四四年米穀検査規則を制定し、穀物検査所を県庁内に設け、県の事業として米穀検査を実施することを決定した。品質を維持するために、県は明治前期から海路輸出米検査規則(明治一九年)や米穀同業組合輸出米検査規則(明治二一年)などを公布して、米穀同業組合などに検査を実施させていた。しかし、生産者に重い負担がのしかかるために、地主層が実施を強く望んでいたにもかかわらず、強制力の伴わない検査は厳格には実施されなかった。
 県による検査の内容は移出検査(輸出検査と呼ばれた)と生産検査である。乾燥、調整、包装について検査され、生産検査は一等・二等・不合格の三通りに、移出検査では玄米が一~三等と不合格米の四通りに分けられた。未検査米を実際に売買したり、不合格米を県外移出することは禁止された。定めどおりの俵をこしらえ、十分に乾燥させ、籾や屑米、砕米(くだけまい)、糠(ぬか)などが混入しないようにするだけでなく、粒や色艶まで揃えるのは生産者の負担であった。
 しかし、この県の決定は小作農を中心に生産者の強い反対にあった。検査実施直前になって、県内各地に検査反対の小作組合が設立されるなど反対が相次いだのである。結局、「僅に豊前国築上、京都の二郡にのみ之を施行し、他は全部之が実施を延期するの止むなきに至り、斯業の計画も茲に一頓挫を来た」(『福岡県米穀検査の概要』)すことになった。
 京都と築上郡でのみ実施された理由は、検査実施に当たって一俵の容量が全国的な取引単位である四斗に統一されたが、この両郡ではもともと一俵は四斗であり、容量を変える負担がなかった上に、一俵あたり二升の割増米(込米、口米)を地主に納める旧慣を穀物検査実施に当たって廃止したからであるといわれている。これに対して、筑前や筑後では一俵が三斗三升で新たに俵をあつらえなければならなかったし、割増米を廃止しなかったため、激しい反対運動が展開されて実施延期にまで追い込まれたのである(『福岡県農地改革史 上巻』)。
 こうした理由に加えて、もともとこの地域では郡や郡農会によって改良米移出への取り組みが以前からなされていた点が挙げられよう。
 
図3 大阪における豊前米の地位(格付け順位)
図3 大阪における豊前米の地位(格付け順位)
出典:福岡県穀物検査所『福岡県米穀検査の概要』昭和6年

 京都郡と築上郡だけで検査が実施された結果、豊前米の高い評価が確定することとなった。図3に示したように、大阪市場では筑前米や筑後米が地位を下げたり下位に低迷したのに対し、検査の実施された豊前米はむしろ地位を高め、常に上位を維持した。福岡県内務部編の『福岡県農林業』は大阪市場における豊前米の人気振りを次のように述べている。
 
築上、京都両郡ハ検査年数ヲ終ルニ従ヒ其ノ改良ノ程度向上シ為ニ需要者ノ嗜好増加シ今ヤ大阪市場ニ於ケル鮨米ノ多クハ豊前米ヲ使用スルニ至リ各米商ノ店頭ニハ本県豊前米ヲ陳列シ以テ上米販売ノ広告トシ以テ華客牽付(ひきつ)ケニ努(つとめ)ツヽアリテ為ニ一日モ我カ豊前米ノ取引ヲ見サルコトナシ斯ノ如ク需要増加ニ伴ヒ価位大ニ昂リ同市ニ於テハ各国産米中ノ花形ヲ以テ遇セラル
(福岡県内務部『福岡県農林業』大正一五年)

 
 こうした豊前米人気の恩恵に浴したのは小作米を大量に販売する地主層であった。