表4 京都郡の農業戸数(自小作別) | (単位:戸、%) | ||||||
年次 | 自作 | 自小作 | 小作小計 | 合計 | |||
比率 | 比率 | 比率 | |||||
明治32年 | 2,306 | 30.8 | 1,049 | 14.0 | 4,131 | 55.2 | 7,486 |
明治38年 | 2,415 | 25.7 | 3,773 | 40.2 | 3,203 | 34.1 | 9,391 |
明治43年 | 1,895 | 21.5 | 2,920 | 33.1 | 4,018 | 45.5 | 8,833 |
大正4年 | 1,995 | 24.3 | 2,560 | 31.2 | 3,653 | 44.5 | 8,208 |
大正9年 | 2,062 | 26.3 | 2,786 | 35.5 | 3,001 | 38.2 | 7,849 |
出典:『福岡県統計書』 |
京都郡の小作地率は明治一八年には五三%の高さに達しており、この時点で広範に地主・小作関係が展開していたことがわかる。しかも京都郡は県内で最も小作地率が高い地域であり、明治期にはほぼ県平均を七%上回っていた。行橋は福岡県で地主・小作関係が最も展開した地域の一つだった。この小作地率は明治三〇年代まで上昇し、大正初期まで六〇%前後の高い比率を維持した(以上は表5参照)。明治期、京都郡では地主・小作関係は発展を続けていたわけである。
表5 京都郡の小作地率推移 | ||
(単位:%) | ||
年次 | 京都郡 | 福岡県 |
明治18年 | 53 | 46 |
明治26年 | 55 | 48 |
明治36年 | 62 | 55 |
明治38年 | 61 | 54 |
明治43年 | 59 | 53 |
大正4年 | 60 | 53 |
大正9年 | 57 | 52 |
大正14年 | 56 | 51 |
昭和5年 | 58 | 49 |
昭和10年 | 56 | 51 |
昭和15年 | 53 | 47 |
出典:『福岡県統計書』 |
『明治年間全国商工人名通鑑』によって明治三一年の行橋の多額納税者並びに地価一万円以上の大地主を見ておくと、まず挙げられるのは県多額納税者の陣山律蔵(今元村)である。陣山は旧柳川藩主家の立花寛治に次いで納税額県内二位であり、県内最大規模の地主であった。大地主として挙げられているのは行橋町の柏木勘八郎、堤猷久と黒田村の木村藤太郎である。彼らのほか、行橋の大地主として挙げられるのは、福島甚六(行橋町)、米原善治(行橋町)、草野円治(行橋町)、村山喜平次(今元村)、守田鷹太(今元村)、糒吉平(椿市村)などである。行橋町と今元村に大地主が集中していることがうかがえよう。表6に示したように、彼らの所得水準は、石炭業者の麻生や安川・松本、あるいは久留米の絣問屋国武などと並んで、福岡県下でも有数であった。
表6 県下高額所得者(明治33年) | (単位:円) | ||
氏名 | 住所 | 職業 | 所得額 |
平岡浩太郎 | 福岡市 | 鉱業 | 60,000 |
許斐鷹助 | 鞍手郡 下境村 | 鉱業 | 40,000 |
大藪万蔵 | 久留米 | 大地主 | 40,000 |
藤勝和七 | 小倉 | 土木請負業 | 30,000 |
陣山律蔵 | 京都郡 今元村 | 大地主 | 25,000 |
柏木勘八郎 | 京都郡 行橋町 | 大地主 | 25,000 |
草野文治 | 京都郡 行橋町 | 大地主 | 25,000 |
土斐崎三衛門 | 早良郡 壱岐村 | 大地主 | 25,000 |
麻生太吉 | 嘉穂郡 笠松村 | 鉱業 | 25,000 |
松本健次郎 | 遠賀郡 若松町 | 鉱業 | 25,000 |
松本潜 | 遠賀郡 若松町 | 鉱業 | 25,000 |
安川敬一郎 | 遠賀郡 若松町 | 鉱業 | 25,000 |
国武喜次郎 | 久留米 | 久留米絣卸商 | 25,000 |
永田正助 | 三井郡 山川村 | 大地主 | 25,000 |
上野作太郎 | 三井郡 草野町 | 大地主 | 25,000 |
林田守隆 | 浮羽郡 田主丸 | 大地主 | 25,000 |
木下八郎 | 八女郡 福島町 | 大地主 | 25,000 |
志岐信太郎 | 山門郡 柳川村 | 25,000 | |
湯村弥源太 | 三池郡 三池町 | 大地主 | 25,000 |
小野隆樹 | 三池郡 三池町 | 25,000 | |
山本太郎 | 小倉 | 25,000 | |
石田平吉 | 門司 | 鉄工業 | 25,000 |
磯部松蔵 | 門司 | 運送業兼船製造労力請負業 | 25,000 |
出典:福岡県名誉発起所『福岡県一円富豪家一覧表』明治34年 |
彼らは明治期様々な経済活動を行っている。貸金業や醸造業を営む一方、新たに勃興してきた企業や銀行に投資してその大株主となったり、それら企業の経営に携わったりしているが、彼らの所得源泉は何よりも小作料に依存していた。
こうした大地主のほか、多くの中小地主が村々に存在していた。彼らは大地主と違って、小作に土地を貸し付ける一方で、農業労働者を雇って自ら農業を行った。こうした地主を手作り地主というが、この地域では明治期には手作り地主がかなり存在したと考えられている。
小作料がどれほどのものであったかを小作証によって検討しておこう。今元村の例によれば、小作料率は収穫の四三~六〇%であった。高い小作料に加えて、小作契約証には次のように記されている。
貴殿御所有の地所当明治二十八年二月より小作請仕(うけつかまつり)候処実正なり然る上は全顕の小作米は水干虫害暴風雨等天災の為め凶荒に罹(かか)る事ありと雖も小作人に於ては決して他の醜風に做(なら)い外並(ほかなみ)或は一般割引と唱え多勢申合強談ケ間敷義申出用捨等更に請求致不毎年十一月三十日限り悉皆是より持参払入可申候
この小作契約証には続けて、小作料は江戸時代の年貢のように現物で納入すること、小作料のほかに口米と称する割増米を納めること、納入期限が遅れたり小作地の手入れが不十分な場合には土地を引き上げられること、小作米の品質は上等太米でなくてはならず品質不良で価格が安くなればその補償をしなければならないこと、水利費は小作人が負担することが規定されており、地主が極めて有利な契約となっていることがわかる。
収穫高の過半を小作料として納めなければならなかった小作農の生活は、当然決して楽なものではなかった。節約に節約を重ね、夜業にいそしみ、口減らしとして幼い子どもらを奉公や糸稼ぎに出してはじめて成り立つものであったといっていい。
なお、行橋地域には通常の小作とは区別される慣行小作が広く行われていたり、永小作や金納小作が存在する地域があったりしたことを付け加えておこう。慣行小作というのは、永小作と違って、法律で保護されているわけではないが、慣行として耕作権の売買や転貸が地主の承諾なしに行われている小作のことである。例えば泉村では中田の耕作権は農地価格の一七%程度、今川村では二〇%程度で売買されていた。こうした慣行は生産性の低い新開地で多く生じている。これらの地域はもともと生産性が低かったために小作料も低かったが、農地改良によって生産性が大きく上昇して小作にとっては極めて有利な小作地となったことから、こうした慣行が生じたと考えられる。
今元村には永小作も存在した。永小作権は地主が誰に変わろうが小作人には何の影響も及ばないし、小作人が自由に転貸や売買ができる権利である。平井新地では一二町歩のうち八町歩は永小作地であったといわれている。平井新地は干拓地であったが、この労力提供者が小作人になる場合に永小作権を与えられたのである。その小作料は普通小作料のおよそ半額であった(以上『福岡県農地改革史』上巻)。
金納小作は新田原の果樹園で広く行われていた。福岡県産業部『福岡県小作慣行調査書』には、「果樹園ノ金納小作ハ主トシテ京都郡ニ行ハレ……明治二十三年頃ヨリ始マリ最近ニ至リ米ヲ以テ小作料トスルモノ増加ノ傾向ニアリ」と記されている。