鉱工業の発展と農業

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 明治後期以降、北九州では次第に工業地帯が形成され始め、とりわけ第一次大戦期にはブームにのって急速な経済的成長を遂げた。重化学工業を中心に工場の新設と増設が相次ぎ、八幡や門司、若松などの都市人口は急増した。筑豊でも需要の激増に応えるため、石炭の増産に次ぐ増産が図られ、石炭業は活況を呈した。諸産業の急拡張によって、北九州・筑豊地域では労働者不足に見舞われ、賃金は高騰した。こうした北九州・筑豊地域での鉱工業の発展は行橋地域の農村に様々な影響を与えた。すなわち、農村人口が次第に流出し始め、手作り地主経営が縮小する一方で、北九州や筑豊の市場を目当てとした商業的農業が展開し始めた。
 京都郡の人口移動を見てみると、京都郡の人口純流出は時代を追って増加し、明治三八年に三〇〇〇人弱に過ぎなかったのに、大正一四年には二万人にも達していた。表7によって、どの地域に流出していったのかを見てみよう。これによれば、京都郡から一万七〇〇〇人が県内他都市に流出している一方、県内の諸都市に県内他町村から一五万人もの人が流入している。とりわけ流入が多いのは八幡や門司をはじめとする北九州地域であり、行橋から流出していった人々の行く先の多くは北九州であったと考えて大きな間違いはないであろう。
 
表7 京都郡における大正14年の人口の流出入(単位:人)
郡市流出流入純流入
自郡内他町村県内他都市他府県植民地・外国合計自郡内他町村県内他町村他府県その他合計
福岡11,4139,2317,30927,95334,85933,83736269,05841,105
若松2,6092,0982664,97318,01121,11150439,62634,653
八幡1,9972,1854664,64838,84142,8931,44383,17778,529
戸畑1,3606642832,3079,79721,16216331,12228,815
小倉4,3373,0211,0718,4299,93717,30713127,37518,946
門司9972,5807054,28211,95847,40337759,73855,456
市合計33,27228,33512,67774,284155,932220,1113,074379,117304,833
京都郡3,74117,1086,0474,63731,5332,9383,7643,2514697,484-24,049
築上郡2,31713,6185,9466,23728,1181,4741,1181,871423,031-25,087
福岡県81,344272,272122,90397,022573,54187,724319,076447,18912,446778,711205,170
出典:『福岡県統計書』

 人口流出の大きな原因は何よりも都市の就業機会の多さと相対的な高賃金にあった。人々はより有利な就労と賃金を求め、都市へ移動していったのである。流出していった人々の多くは最大の人口を占めた農民や農業労働者(農業年雇)であった。すなわち京都郡の農業人口は明治四三年から大正一四年の間に一万一八八八人(農業人口の二五%)減少した。
 脱農化の進行や農業年雇の減少は、次第に手作り地主経営を解体することになった。すなわち農業年雇賃金が上昇するとともに、彼らを雇用して比較的大規模に農業を営んでいた階層が、経営規模を縮小したり、手作り経営をやめて完全に地主化していったのである。表8はその様相を示している。同表によれば、大正四年には一三二戸存在していた三町以上経営農家は、昭和初期には激減し、わずか四六戸存在するにすぎなくなった。とりわけ大正四年には二一戸あった五町以上経営農家は、昭和一〇年には一戸を残すのみとなっている。
 
表8 耕作規模別農家戸数の推移(単位:戸、%)
 年度5反未満 5反以上 1町以上 2町以上 3町以上5町以上3町以上 合計
比率比率比率比率比率
京都郡大正4年2,95136.02,81734.31,92123.43874.7111211321.68,208
大正9年1,99325.52,69534.52,50132.04645.9116361521.97,805
大正14年1,97424.72,93136.62,69733.73524.4445490.68,003
昭和5年1,60420.12,96037.02,98537.33975.0424460.67,992
昭和10年1,86923.22,61232.53,07538.24465.5461470.68,049
昭和15年1,77423.42,21229.23,17941.93674.8473500.77,582
福岡県大正4年53,11534.453,11634.438,44624.98,2065.31,5471041,6511.1154,534
大正9年49,58233.451,39834.638,07825.77,8675.31,3021291,4311.0148,356
大正14年48,69432.950,55534.239,91427.07,5855.11,097591,1560.8147,904
昭和5年48,07232.151,69934.541,63427.87,3524.91,032511,0830.7149,840
昭和10年48,01132.451,18434.640,56527.47,2264.91,035571,0920.7148,078
昭和15年45,52832.046,39832.641,49129.27,6255.41,1371021,2390.9142,179
出典:『福岡県統計書』

 経営規模五反以下の農家も激減している。この階層の農家は大正四年には三〇〇〇戸近く存在し、全農家の三六%を占めていたが、昭和五年には一六〇〇戸ほどになり、農家の二〇%を占めるにすぎなくなっているのである。この間一四〇〇戸ほど減少したわけである。最も零細規模の農家がいちはやく脱農化していったことがここからうかがえよう。
 大規模経営と最零細経営農家が激減したのに対し、一町以上二町経営農家は増加した。大正四年には二三%を占めるに過ぎなかったこの階層は、第一次世界大戦期から増加し始め、昭和期に入ると四〇%近くを占めて、農家の中核階層となっていった。第一次大戦以後、地主経営に代わって、彼らが農業経営を担うことになるわけであるが、農業への投資余力をもつ比較的豊かな地主層が農業経営から退き寄生化することによって、農業生産は次第に停滞することになった。