新田原の果樹栽培

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 新田原は行橋南部から築城町一体にまたがる丘陵地の総称である。この地域は昭和初期、九州で有数の果実生産地であった。「新田原」の名のとおり、この地域は明治前期に新たに開墾された地域であった。開墾に中心的な役割を担ったのは城戸厳治であったといわれている。城戸は仲津村稲童の地主で、酒造業を営んだほか、県会議員としても活躍した名望家である。後、行橋の大地主・柏木勘八郎や福島貞次郎がこの開墾事業に加わり、さらに大規模な開墾が行われた。
 新田原での果樹栽培が始まったのは明治三〇年頃からで、広島から移住してきた村上治作や藤原吉兵衛による桃の栽培がその嚆矢であったという。これは県下で最初の桃栽培であった。明治四二年に、桃についで梨が栽培され始めた。梨栽培も広島から移住してきた渡辺俊策によって始められたものであった。渡辺は広島の深安郡下竹田村の農家に生まれ、長じて果樹栽培を志し、その先進県である岡山県などに出かけ、調査研究を続けたという。彼は果樹栽培の適地を探し求めていたが、たまたま豊州鉄道の車窓から新田原を見出し、全財産を処分して新田原にやってきた。移住後、彼は様々な果樹を試植し、その適否を確かめ、栽培適合果樹と品種を見出して、新田原果樹栽培の指導者となっていくのである(『京都郡新田原の果樹園』、山内公二「新田原果樹園発達小史」)。
 明治後期に果樹栽培が開始されたとはいえ、新田原を中心とする京都郡の果樹生産は「本郡ノ気候ハ温暖ニシテ果樹ノ栽培ニ適スレドモ栽培未タ普カラズシテ……生産ハ需要ヲ充タス能ハズ年々他地方ヨリ移入セル額ハ莫大ナルモノナリ」(『京都郡是』)という有り様であった。桃についてみれば、「多用栽培セラレツヽアルモ培養宜シカラズ為ニ結実不良ニシテ漸次退歩ノ状態ナリシ……」と記されている(『同書』)。また梨については「明治四十四年十二月末日調査ニ依レバ本郡梨ノ産額ハ八百八拾円ニ過ギズ」という状態であった(『同書』)。
 しかし、果樹栽培の努力が積み重ねられ、果樹栽培農家が増加し、需要の拡大もあって栽培面積は大戦期以降急増した。こうして、一九一〇年には微々たる比率しか占めなかった京都郡の桃、梨の生産は、一九二〇年には県下生産のそれぞれ三二%、一六%を占めた(表11)。そして、一九二〇年代になると、新田原は梨・桃の主産地として広く知られるようになった。「新田原の梨」、「新田原の桃」はブランドになったのである(『福岡県農林業』)。
 
写真2 新田原果樹園の梨畑(大正時代)
写真2 新田原果樹園の梨畑(大正時代)

表11 京都郡の桃・梨の生産高(単位:円、%)
種別年度京都郡比率その他福岡県
もも1910年787231,14431,931
1920年70,84432151,213222,057
1910年1,146267,29668,442
1920年62,46216333,919396,381
出典:『福岡県統計書』