文久新地は旧今元村の七六町歩に及ぶ干拓地である。文久二年(一八六二)に一応の完成をみたので文久新地と呼ばれている。塩害に遭ったりするなど地味が劣等であったために、明治二〇年代まではあまり開拓されないままであった。明治中期頃から徐々に移住者が入り、意欲旺盛なこの移住者たちを中心に文久新地は次第に美田に生まれ変わっていったという。
大正末期、文久新地の農民たちは米麦中心の農業を改め、里芋と白菜を取り入れた多角的農業に踏み切った。この地域の農家の経営面積は今元村の平均耕地面積の二倍にも達するほど大きく、労働力配分を調整する必要から、水田に里芋栽培が導入されたといわれている。里芋の「早生(わせ)」を導入し、後作として野崎白菜などのそ菜が植えられた。これらの出荷については、地域で出荷組合を作り、市場を開拓することに努め、当初は北九州だけであった出荷先も、田川、下関と広がっていった。品種の改良にも努力を積み重ね、里芋では「文久早生」という品種を作り上げている。この文久早生は昭和四年の九州各県園芸共進会で一等を受賞した。
こうした取り組みによって、農家は現金収入を得ることができ、その経営は以前に比べ格段に安定したといわれている。今元村では文久新地の成功に刺激され、そ菜生産は全村に広がっていった。そして、新開地で成功した里芋に変わって、旧開地では西瓜が生産され、今元西瓜として定着するのである(以上『福岡県農地改革史』)。
このような特産物生産の一つとして、椿市村矢山のゴボウや仲津村長井の沢庵製造もあげることができよう。矢山のゴボウについては明らかではないが、長井では明治末期頃から沢庵製造が始まり、大正八年には長井沢庵販売組合が結成され、同組合によって北九州や筑豊地域に出荷されている。昭和三年にはその出荷高は三四六〇樽、二万二四九〇円に達した(京都郡農会『昭和三年度事業報告』)。