畜産の展開と京都酪農

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 京都郡は、大正期には「田川、嘉穂、京都ノ三郡ニアリテハ県下屈指ノ産牛地タリ年々子牛ノ他府県ニ移出セラルルモノ各郡約一千頭ニ達セムトスルノ盛況ニシテ……」(福岡県内務部農林課『福岡県の農林業』)とあるように、県下屈指の子牛生産地であった。大正期、経営の安定を図るために徐々にこの仔牛生産は増大し、とりわけ次に見る昭和恐慌期に農村経済立て直しの一方策として、多くの村々で仔牛の増産と乳牛飼育が図られた。
 とくにこの地域の酪農導入の画期となったのは京都酪農乳販売購買利用組合の結成であった。当時、酪農は県下では珍しく、他地域に先駆けて酪農が本格的に導入されたのは、京都農学校校長・光沢与吉の卒業生に対する勧奨であった。彼の呼びかけに一七一名の卒業生が応じて、昭和一四年から組合による酪農が開始された。今元村の組合員は資金の半額を組合などから借り入れて千葉から乳牛を購入したという。以後しだいに飼育頭数は増大し、終戦時には同村で五六頭になっていた。