我が国経済は第一次世界大戦後の恐慌以降、慢性的な不況に襲われていた。大戦直後、ヨーロッパの旺盛な復興需要と大戦後も活況を呈するアメリカへの好調な輸出に支えられて、熱狂的な投資がなされ、過大な設備拡張が続けられた結果、一九二〇年恐慌(反動恐慌)が勃発した。投資が巨額であっただけに打撃も大きかった。中小企業はもちろん、大戦期に急速に成長してきた一部の大企業やそれら企業に資金を供給していた銀行が危機的な状況に陥った。政府や日本銀行が大々的な救済融資に乗り出して、かろうじてこれら企業の多くは生きながらえることができた。しかし、本来整理されるべき過剰な生産設備や企業が温存されたために、供給過剰の状態が長く続くことになった。慢性的な不況状態に陥ったのである。また多くの中小銀行は青息吐息の中小商工業を抱え、不良債権の累積に苦しんだ。
不況は中小企業の多い軽工業部門や農業にとりわけ深刻な影響を与えた。重化学工業部門の寡占的な大企業はカルテル(価格協定)を結んで価格の下落を最小限に抑えることができたけれども、これら部門では激しい競争が価格を一段と下落させていたからである。
昭和二年には、金融恐慌が勃発した。資金の固定化に苦しむ銀行に全国的な預金取付けが発生し、多くの銀行が破綻した。
さらに、昭和五年(一九三〇)、長期の不況に苦しんでいた我が国を昭和恐慌と呼ばれる未曾有の恐慌が襲った。一九二九年アメリカで勃発した世界恐慌の大波が日本に押し寄せてきたのである。世界恐慌の影響を受けて、アメリカを中心とする輸出が激減した。おりしも日本では、金本位制に復帰することによって経済の根本的建て直しを図るために、緊縮政策をとって財政支出を大幅に削減していたから、日本経済は二重の打撃を受けることになった。都市では企業が次々に倒産し、多くの労働者の解雇を伴う合理化が実施された。労働争議が多発し、失業者が急増した。
より深刻であったのは農村であった。農産物価格は大きく下落し、農家は危機的状況に追い込まれた。図4に示したように、一般物価(農家購入品)の下落に比べて、農産物価格は大きく落ち込んだ。とりわけ下落幅が大きかったのは米であり、繭であった。我が国の農業は「米と繭の農業」といわれるほど、農業収入に占める両者の比率は高かった。その米価と繭価が暴落したのである。農家の中でも打撃が大きかったのは水田単作地帯である東北地方と長野や岐阜の養蚕地帯であった。現金収入を絶たれた農民は楢の実や蕨の根を食べて飢えをしのいだり、娘や妻の身売りを余儀なくされたりした者も少なくなかった。