危機的状況に陥った農村を救済するために、政府は農村で様々な公共事業を実施して、農村に集中的に資金を散布していった。一方、各農村では経済更正運動が展開された。この経済更正運動というのは、農村経済を自力で立て直すために、村ごとに立て直し計画を樹立させ、精神強化運動と連携させながら、村民を総動員して計画を実行させようというものであった。産業組合がその実行機関として位置づけられ、計画の実現のために農会、農事組合、戸主会、婦人会など村内の諸組織が総動員された。
経済更正運動の指定農村として県から補助金を受けた稗田村と椿市村、今元村の経済更正運動を見てみよう。稗田村では、経済更正村に指定されると経済更正委員会を結成し、裏作奨励、米麦品種の統一更新、牝牛の改良と子牛増産、藁加工、自給肥料増産、共同販売、貯金奨励、納税奨励などが村ぐるみで展開された。裏作奨励では完全実施を目指し、麦、菜種、れんげの裏作が奨励され、品種統一更新では、水稲では旭や三井、小麦では早生や江島神力の種子が村や農事組合によって設置された採取圃から農家に配布された。現金収入の増加と自給肥料の増産を促進するために実施された仔牛増産や牝牛改良では、仔牛飼育者に種付け料が補助された。また、藁加工では増産を奨励する一方で、販売価格を有利にするため個人販売を禁じ、設立した稗田村製縄組合連合会を通じて契約した北九州の販売業者に売却した。貯金奨励では各自の貯金のほか共同貯金が奨励され、なかば強制的に産業組合に貯金された。納税奨励では、二九もの納税組合が設立された。人々は更正座談会や講話会など諸種の会合に動員され、計画の実行と時間励行や節約が繰り返し説かれた。
こうした運動の結果、裏作耕地は昭和八年の一八二町から昭和一二年の二五七町に拡大し、牝牛は一五八頭から一九六頭、仔牛の生産は四七頭から七六頭、製縄高は三万貫(昭和九年)から六万三〇〇〇貫(昭和一一年)に増加している。産業組合の貯金は四万六〇〇〇円(昭和九年)から八万七〇〇〇円(昭和一二年)に増加し、租税未納者は昭和八年の一四一名から昭和一一年には一五名に激減した。
椿市村でも、ほぼ同じような運動が展開された。すなわち、同村でも経済更正委員会が設置され、同委員会のもとで、納税組合の組織化、自作農奨励、副業品共同販売施設の設置、醤油配給統制(産業組合による生産と配給)、自給肥料増産施設整備、中堅青年農業経営改善研究会活動などが実施された。納税の組織化では、村内に二一の納税組合が組織され、期限内に完納された。自作農奨励では毎年五町歩の自作田を創設することとし、自作農資金貸付審議会を設置して、政府低利資金の貸付を促進した。この自作農創設資金は昭和一二年には五万円を超過している。自給肥料増産施設では、農家二六〇戸中一〇〇戸に堆肥小屋が建設された。
今元村でも、ほぼ同様の計画が実施されたが、同村の特徴はそ菜生産の増産と共同販売の促進であった。文久新地で始まったそ菜生産がこの時期全村で奨励実施され、その販売は産業組合の肝いりで設置されたそ菜出荷組合によって、トラックで北九州、筑豊、下関に出荷された。昭和八年当時二万三〇〇〇円であったそ菜生産額は、昭和一二年には四万四〇〇〇円に増加している(福岡県経済部「経済更正計画実行概要」、同「経済更正計画実行状況に関する調査」)。
以上のような更正運動は、都市の景気回復に助けられたという面が大きかったにせよ、農家経営の改善に一定の役割を果たしたと考えられる。とりわけ、産業組合による共同購買・販売によって、コストを削減し販売力を高めるという点については大きな成果を収めたといえよう。