産業組合の発展

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 産業組合は第二次世界大戦前の協同組合である。中小生産者や消費者などの経済的弱者が相互に共同して販売や購買、金融などを営むことによってその弱点を補おうという組織である。この産業組合という協同組合は一九二〇年代以降、主として農村を中心に発展した。産業組合が農村を中心に発展したのはいわゆる農業問題の深刻化という事情に基づいている。すでに見たように、明治末期頃から、とくに第一次大戦以降、地主の寄生化が次第に進み、生産の担い手は小農民に移りつつあった。それにもかかわらず、長期的不況の下で、農産物価格の下落や過剰人口圧力、租税公課の増大に曝され、担い手である小農は次第に窮乏化していたのである。政府は農業の発展のためにその担い手である小農を維持強化する必要に迫られたが、その格好の機関として保護育成されることになったのが産業組合であった。一方、農民にとっても低利資金供給や肥料の共同購買によって負担の軽減をもたらす産業組合は、不可欠の機関となりつつあった。
 福岡県の産業組合の普及の状況を見てみよう。福岡は「東の長野、西の福岡」と言われるほど産業組合が発展した県であったが、一九二〇年代以前はむしろその普及は遅れがちであった。福岡で産業組合が発展しだしたのは、大正四年に「産業組合奨励十カ年計画」が立てられて以降のことであった。産業組合の趨勢を見てみると、組合数、組合員数とも大きく伸びており、一九一〇年には農業戸数の七%を占めるに過ぎなかった組合員数が、一九二〇年には五三%、一九二六年には農家の加入率は一〇〇%を超えた。この間急速に普及したことがうかがえよう。
 京都郡の状況を見ると、大正七年現在で産業組合が設置されていた町村は六町村だけであった。当時郡内には二一町村があったから、一五町村で未設置だったわけである。京都郡は福岡県の中でも三井や早良とともに産業組合の普及が最も遅れた地域であった。とくに行橋地域は椿市村に椿市村信用組合が設置されていただけであった。しかし、大正後期以降、県の「産業組合奨励十ヵ年計画」のもとで、この地域でも産業組合は急速な普及を見ることになった。昭和九年の普及状況を一瞥すると、京都郡では農家戸数七八九三戸に対し、組合員数は七三〇二人で、加入率は九三%に達していた。これは県内でも筑紫、築上、糸島、八女に次いで高い加入率であり、産業組合の急速な普及振りをうかがえよう。
 行橋地域に設立された産業組合は昭和一二年の段階で表15のようになる。各町村に設立され、行橋町を除き大多数の農家が組合員になっていることがわかる。行橋信用組合の場合には、後に見るように、どちらかといえば商人を中心として設立されたために、農民の加入率は低位にとどまった。
 
表15 行橋地域の産業組合(昭和12年)
組合名農業戸数組合員数加入比率
 %
椿市村信用購買販売利用組合35934295
延永村信用購買販売利用組合44243999
稗田村信用購買販売利用組合37534592
今川村信用購買販売利用組合44538987
仲津村信用購買販売利用組合72461785
今元村信用購買販売利用組合65860692
行橋信用購買販売利用組合2,4161,43359
京都郡乾繭共同販売利用組合 1,473 
泉村信用購買販売利用組合43528566
合計5,8544,45676
出典:『福岡県産業組合要覧』
備考:京都郡乾繭共同販売購入利用組合の組合員数は合計から控除している