実際、同会の活動はほとんどが小作料減免交渉になっていった。すなわち同年一一月には、多くの小作地が虫害の被害にあったこともあって、厳しい割引交渉が行われている。一時、小作人側評議員が辞表を提出するなど緊迫したが、割引歩合を協定することで妥結した。その割引歩合は一割八分から四割二分に及んだ。翌大正一二年には交渉は数度にわたって行われたが、妥協の見込みがつかないまま年を越し、一月末になってようやく協定が成立した。割引歩合は二割から四割に達した(大橋農業親和会「小作米割引ノ件通知」)。
大正一三年はさらに深刻であった。本田前田内新地などの一一五町歩の小作地で、地主小作間の主張に大きな隔たりがあり、小作米割引交渉は決裂してしまったのである。すなわち、小作側は本田前田内新地では三割五分、同川向大新地では四割、寅新地では四割五分を主張したのに対し、地主側はそれぞれ五分、一割五分、二割を主張して譲らず、争議にまで発展してしまった。小作側は小作地を返還し、以後、関係地主の土地の不耕作を通知したのに対し、地主側も結束して返還地の共同耕作と以後小作に出す場合は地主会の承認を要することを取り決めたのである(大橋地主会「議事録」)。結局、翌年の三月になって小作調停官の調停によって、それぞれ二割、二割七分五厘、三割二分五厘で折り合いがついた(「小作争議調停書(写)」)。大正一五年も同一地域の割引と引き下げをめぐって激しい対立が続き、前年度と同じ比率で小作料割引が実施されたうえ、小作料そのものが引き下げられた。
協調組織を成立させたにもかかわらず、地主小作関係が年々深刻化してゆく状況が理解できよう。そして、この対立の中で、地主は結束する小作側に対し次第に譲歩を重ねていかざるを得なかった。