戦争の進展とともに食糧需給も次第に逼迫してきた。軍需工業の急速な発展によって労働者や都市人口が増大して、米穀需要が増加する一方、中国戦線における軍用米の需要が増えたからである。政府は食糧の安定的確保のために配給統制を強化すると同時に、食糧増産のために生産統制をとっていった。
すなわち昭和一四年、米の強制買い上げ制度が開始され、以後年々統制は強化された。その結果、耕作農民と在村地主の自家保有米を除くすべての米が、政府に供出されることになった。さらに、昭和一七年には「食糧管理法」が公布されて、米麦などすべての主要食糧が国家管理のもとに置かれることになった。一方で、政府は食糧増産のために主食の米麦類の作付けを強制していった。この結果、この地域に発展しつつあった商業的作物の生産は激減した。新田原の果樹園は荒廃し、今元村のそ菜生産は見る影もなく激減した。
こうした政府の増産政策にもかかわらず、農業生産は戦争の進展とともに停滞していった。それは何よりも農村労働力の過度の流出と農機具や肥料、畜力の不足に基づいていた。青壮年の男子は兵隊にとられ、軍需工業に動員されたし、農機具や肥料はその生産が制限されていたため、著しい供給不足に落ち込んだのである。馬も軍馬として徴発された。
食糧生産を維持増産するために、様々な対策が採られた。その一つが共同作業の組織化や共同施設の活用である。福岡県下七七〇〇あまりの農事組合によって、共同苗代や共同田植え、共同脱穀などの共同作業を実行させたり、農機具や農耕馬の共同購入、共同利用を図ろうというのである。託児所や共同炊事を実施することも求められた。また、女性や児童の動員なども実施された。昭和一四年五月に福岡県経済部長から各市町村や農会宛に出された通達「農家婦人ノ作業増進ニ関スル件」は次のように記されている。
青壮年男子ノ著シク減少セル農村銃後ノ生産確保増進ハ「銃後の守り(生産の確保)は婦人の手で」遺憾ナキヲ期スルノ覚悟ヲ以テ婦人ノ農事就労増進ヲ促シ之ガ為婦人作業隊、農事組合婦人部、婦人農会、婦人農業報国連盟等ヲ強化拡充シ国家ノ要求ニ際シテハ敢然トシテ其ノ指サレタル方向ニ邁進シ国家ヲシテ泰山ノ安キニ置クベク大和撫子ノ本領ヲ発揮候様特別ノ御配慮相成度
県は学校の生徒児童の動員についても、農繁期休業、夏期休業のほかに「必要ニ応ジ臨時休業ヲ認ムル等臨機ノ措置ヲ講ジ」、整地播種、除草、収穫、病害虫予防、養蚕などの農作業の労力を援助するよう通牒を出している。