明治後期の沿岸漁業

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 統計資料(福岡県発行『福岡県統計書』、以下『統計書』と表記)をもとに、明治後期の漁業について整理したい。なお、当該期の統計は郡・市別となっており、現行橋市域が属した京都郡には、現市域の他に現苅田町の苅田と浜町の二つの漁業集落を含む。表24によると、明治後期の京都郡の漁業人口は明治三九年度前後に落ち込むが、同四四年度にはその約四倍強に増加している。こうした増加傾向は京都郡に限らず、福岡県全体において明治末期から第一次世界大戦終結(大正七年)まで続いた。なお明治三五年度以降の京都郡における漁業戸数は、過半数を兼業漁戸が占めるようになる。専業漁戸の減少と兼業漁戸の増加といった現象は、明治末期から大正初期にかけての全県的な傾向でもあった。
 
表24 明治期京都郡の漁業戸数・人員
 漁業戸数漁業人数
専業(戸)兼業(戸)合計(戸)専業(人)兼業(人)合計(人)
明治29年度368193561
明治35年度5641,0521,616
明治39年度110291401180421601
明治44年度1692894581,0041,7382,742
出典:福岡県『福岡県統計書』
注:明治34年度の該当統計データがないため、翌年度分を表示する

 次に、漁具について整理したい。『統計書』では、漁網を繰網(くりあみ)、敷網(しきあみ)、巻網(まきあみ)、刺網(さしあみ)、建網(たてあみ)、雑網の六種に分類・統計している。これをまとめた表25によると、明治三四年は繰網、建網とその他雑網の操業にとどまっていた。しかし年次を追うごとに刺網、敷網と漁網の種類が増え、繰網を除いた漁網数は増加傾向を示した。主な網種ごとに解説していこう。
 
表25 明治期京都郡の漁網種・数
 漁網数(本)
明治34年度明治39年度明治44年度
繰網59(O/-)14(O/O)14(O/O)
敷網7(O/O)
巻網
刺網256(105/0)291(17/30)
建網24(1/-)43(11/0)63(1/O)
雑網154(28/-)360(55/8)509(21/10)
合計237(29/-)673(171/8)884(39/40)
出典:福岡県『福岡県統計書』
注:網数の括弧内は「新製漁網/廃用漁網」の数を示す

【繰網】引網類の一種で、魚群を網で囲み、波打際または船舷(ふなべり)に引き寄せて操業する。豊前海では、小型の手こぎ漁船一艘に二~三人が乗り込んで行う小規模漁業が一般的であった。経費が少なく漁法が簡易であることから広く行われ、漁業者の生計の中心であったといわれる。豊前海では大別して、手繰網(引寄網類)と打瀬網(引廻網類)の二種が操業されていた。
 前者は、明治前期から四漁業集落の基本的な漁業であり、とくにいずれの集落も従事した雑魚船曳網は、シャコやエビ、ハゼなどを周年にわたって獲る漁業である。後者の打瀬網には、近世から行われていたとみられる、小規模なもの(以下、「小打瀬網」と称する)と、明治三七年頃から豊前海の漁業者が操業に着手したといわれる、より大規模なもの(以下、「打瀬網」)の二種がある。「小打瀬網」は小型帆船を利用して、潮力で一隻につき一つの網を引き回し、六月下旬から九月初頭までの間、タナゴやメバルなどの海底の遊魚を獲る。
 次に、「打瀬網」は岡山県和気(わけ)郡日生(ひなせ)村の漁民が幕末に考案したとされるもので、大型帆船一隻で三~六個の網を引き回して、六~七月と九~翌二月の二期に、アカエビや雑魚(各種底魚)を獲る。豊前海では、明治三〇年頃から岡山県をはじめ広島・香川・愛媛各県の漁民が、蓑島などを寄港地としながら「打瀬網」を開始した。豊前海一帯に一〇〇隻程度が入漁し、それまでの豊前海漁場の利用秩序は大きな打撃を受けた。このため、福岡県では、「打瀬網」を排除する方針をとったが、入漁は続いていた。大分・山口両県では、県知事の許可を受け入漁する「許可漁業」として「打瀬網」を管理し、資源保全にあたっていた。福岡県も明治三七年に県漁業取締規則を改正し、「打瀬網」を知事による許可漁業の一つとした。これを受けて、各浦の漁業組合が入漁の許可申請をする船頭と協定し、その漁獲物の販売と漁獲物製造所(加工所)については、豊前水産組合に委託することとなった。「打瀬網」が許可漁業となったことにより、入漁者からの技術伝播などをもとに、豊前海漁民による操業も開始された。
【建網】定置網を指し、豊前海では桝網という小型定置網が主に操業されていた。クロダイ、スズキなど、比較的市場価値の高い回遊魚を獲る。これも岡山の日生漁民の考案した漁法といわれ、タイの漁獲効率の高さを特徴とする。また、大型定置網に比べて低価格で設置が安易なこと、さらに揚げ網(魚の採捕)が容易であることから、広く普及したとみられている。
 県下においては、「豊前海で著しく発達した漁法」と評され、明治二〇年代以降にはさらなる技術革新が図られた。春夏を盛漁期とするが周年にわたって経営され、豊前海の基幹漁業となった。
【刺網】浮子(あば)と沈子(いわ)の沈降力の差を利用して、帯状の網を沈下させ、それに魚が刺さるようにしたり、絡ませたりして捕獲する網漁を指す。水中の中層・上層(海面)で使用する流網(流刺網)と、水中下層で使用する底刺網に大別される。
 前者の流刺網漁では、夏期にサワラ、冬期にヒラ(サッパ)などが漁獲された。これは、主に蓑島で操業された。明治前期の蓑島でもヒラ網が操業されていたが、刺網ではなかったとみられ、技術の変革があったといえよう。なお後者の漁としては、春期のコチ漁があげられる。
【釣漁】延縄(はえなわ)漁と手釣が行われていた。延縄とは、一条の幹縄に適当な間隔を置いて多くの釣り糸を取り付け、それぞれに鍼を付けた漁具を指す。ハモ延縄漁や手釣は近世からみられ、明治期に入ると次第に手釣から延縄に移行してゆき、延縄の種類が多様化したとみられる。その一つであるイイダコ延縄漁やその漁業者を、蓑島では「タコベイ」や「タコベ」と称する。島内で大島、小島と地区ごとに集団化して「小島イイタコ組」などと称し、集団ごとに出漁日をそろえた。
 これらのほかには、ハマグリ、アサリ、カキなどの採貝が小規模であるが行われ、またハゼ釣などの河川漁業や、田圃などを利用したコイ、フナの養殖も行われていた。また長井浦漁業組合(仲津村)は、地先海面二万坪におけるキヌガイ(バカガイ)養殖のための区画漁業を申請し、明治四〇年一月に免許されている。その後の展開は不明で、『統計書』には計上されていない。
 以上のように、明治中・後期には、大幅な漁業技術の変革と発明が行われた。
 こうした動向は、漁船数の推移にも反映する。表26をみると、郡内における明治期の漁船は和船で、動力化はみられないが、徐々に規模を拡大している。なお表27からわかるように、市域内では蓑島と沓尾が主要な漁業勢力で、漁具・漁船の改良は、両集落を中心として展開していたとみられる。
 
表26 明治期京都郡の漁船数
 漁船規模漁船数(隻)
明治34年度3間未満297(13/17)
297(13/17)
明治39年度3間未満255(14/23)
5間未満3(-/-)
258(14/23)
明治44年度3間未満239(11/12)
5間未満4(-/-)
5間以上7(-/-)
250(11/12)
出典:福岡県『福岡県統計書』
注:漁船数の括弧内は「新造漁船/廃用漁船」の数を示す

表27 漁獲物数量・価格対照表
 明治38年度明治39年度
漁獲物数量(貫)漁獲物価格(円)漁獲物数量(貫)漁獲物価格(円)
蓑島16,2327,57121,21613,182
沓尾11,0354,59415,81810,540
長井535344470695
稲童750652766511
合計28,55213,16138,27024,928
出典:福岡県『福岡県統計書』
注:漁獲物は灌水・淡水産魚族と貝類を指す