明治期の漁獲物流通

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 京都郡内の魚市場は、明治二一年までは行橋と蓑島の二カ所と確認され、同三五年には今元も加えた三カ所となっている。蓑島の魚市場は蓑島村改清社といい、明治三〇年代には三軒の魚問屋が共同経営していた。行橋・蓑島の魚市場は、いずれも京都郡内と田川郡を販路としており、特に田川郡後藤寺など産炭地の魚市場が主要な取引先であった。
 明治二三年の仲哀トンネル開通や、同二八年の九州鉄道豊州線(現日豊本線)の開通、同三〇年の豊州鉄道中津線の開通により、行橋は小倉・下関と筑豊に向けた物資の集散地となった。こうした交通網の整備は、魚市場の成長を促した。鉄道を利用して移出された漁獲物やその加工品として、蓑島村磯村保平の生エビ(東京向け)、稲童浦漁業組合員の肥料(中津向け)、蓑島の鮮魚(田川郡赤村・津野村一円、同郡後藤寺新町魚市場向け)などがあった。
 市場と仲買の間には、「歩戻し」(歩戻りともいう)という商慣行があったことが、蓑島村の魚問屋であった丸谷久夫家文書からわかる。これは、近世から全国的にみられるもので、販売奨励金にあたる。市場の収入は「口銭」といわれる販売手数料で、額は卸値に一定の割合をかけて算出される。仲買は市場で集荷した漁獲物を小売商などに販売し代価を得て、その中から市場に漁獲物買取の代価を支払う。市場はこの代価を円滑に回収するため、市場に漁獲物代価を支払った仲買に対し、口銭のうち二~三歩(%)を差し戻していた。これを歩戻しという。小売人も市場での取引に参加できたが、歩戻し慣行は適用されず、仲買保護による市場機能保全を目指した制度であった。