明治に入り西日本の漁民による朝鮮への出漁が増えるなか、明治二二年に日朝通漁規則が発布され、福岡県は朝鮮海への移住・通漁を奨励した。さらに同三七年には、朝鮮海水産組合(全国組織)が、朝鮮南部の慶尚南道巨済島長承浦(入佐村)に根拠地を完成させ、翌年以降福岡県などから移住者が出た。長承浦は、タイ漁業やサワラ流網、サバ漁業の拠点地として発展した。豊前海区で朝鮮への通漁・移住を推進する豊前水産組合は、同四〇年に長承浦に移住漁村を建設し、同四一年度には遠洋漁業補助金を設け、移住者の増加につながった。
また、移住のほかに通漁も行われ、京都郡からは、明治三八~四二年に確認され、同三八年に手繰網とタイ縄を用いて、船数八艘、乗組員二四人で出漁し、年間一四一円の漁獲物価額を計上した。翌年には四艘で桝網が出漁し、漁獲物価額一七六七円を計上した。いずれも沿岸漁業をそのまま援用しており、漁船も通常の無動力和船を利用していた。