表28 大正・昭和初期京都郡の漁業戸数・人員 | ||||||
漁業戸数 | 漁業人員 | |||||
専業(戸) | 兼業(戸) | 合計(戸) | 専業(人) | 兼業(人) | 合計(人) | |
大正3年度 | 173 | 524 | 697 | 424(137) | 1,657(262) | 2,081(399) |
大正8年度 | 164 | 238 | 402 | 523(106) | 587(123) | 1,110(229) |
大正13年度 | 171 | 440 | 611 | 460(66) | 987(453) | 1,447(519) |
昭和4年度 | 192 | 423 | 615 | 485(52) | 1,743(606) | 2,228(658) |
昭和9年度 | 133 | 497 | 630 | 442(115) | 1,625(688) | 2,067(803) |
昭和14年度 | 201 | 396 | 597 | 454(96) | 838(259) | 1,292(355) |
出典:福岡県『福岡県統計書』 | ||||||
注1:「漁業人員」の項目の括弧内は女性を示す | ||||||
注2:大正13年度以降の統計には「被扶養者」の項目があるが割愛した |
漁網は、大正期の統計のみであるが、表29に示している。これによると、明治期の統計には現れなかった巻網(旋網)の出現、繰網と建網の増加傾向が明らかになる。また、刺網は大正中期まで大幅な増加傾向を示すが、同末期には約八割が廃滅し、敷網も衰退を示している。
表29 大正期京都郡の漁網種・数 | |||
漁網数(本) | |||
大正3年度 | 大正8年度 | 大正13年度 | |
繰網 | 24(20/0) | 367(97/84) | 688 |
敷網 | 8(8/0) | 9(0/0) | 0 |
巻網 | 4(4/0) | 2(1/O) | 17 |
刺網 | 278(25/45) | 918(205/793) | 186 |
建網 | 62(6/10) | 87(11/5) | 195 |
雑網 | 580(93/27) | 445(85/95) | - |
合計 | 956(156/82) | 1,828(399/977) | 1,086 |
出典:福岡県『福岡県統計書』 | |||
注:網数の括弧内は「新製漁網/廃用漁網」の数を示す | |||
なお大正13年度の統計には該当データなし |
巻網とは魚群を網で囲み、網を船に引き揚げる漁法に用いる網の総称である。京都郡内ではボラの漁獲に用いられた。このほか、繰網の一種であるナマコ桁網(けたあみ)が、大正期から操業され始めたとみられ、『福岡県統計書』で大正八年からナマコの漁獲が確認される。桁網とは鉄製の枠に袋状の網をつけた底引網で、これを海底につけて曳行(えいこう)し、網の通路に棲息するナマコを引き入れて採捕する。
次に表30から漁船統計をみると、大正中期から動力船が導入されている。県下で最初に動力漁船が出現したのは大正六年で、他府県に比べると遅れをとっていた。県下では大正一〇年まで機船底引網、同年以降は釣漁業に導入されたといわれている。動力漁船は増加傾向を示し、昭和一四年度には大正八年度の約七〇倍にまで増加した。大正八年度と昭和一四年度には、兼業漁戸減少によって漁業人口の減少がみられたにもかかわらず、漁船数の減少はなく、むしろ動力化が進展している。漁船を所有しないか、または昭和一四年度の段階で非動力漁船を所有した兼業漁戸が、漁業離れをしたと想定される。
表30 大正・昭和初期京都郡の漁船数 | |||
動力の有無 | 漁船規模 | 漁船数(隻) | |
大正3年度 | 動力なし | 3間未満 | 200(9/20) |
5間未満 | 4(1/3) | ||
5間以上 | 4 | ||
計 | 208(10/23) | ||
大正8年度 | 動力なし | 5t(50石)未満 | 228(12/8) |
5~20t(50~200石) | 2(2/0) | ||
小計 | 230(14/8) | ||
動力あり | 20t(200石)未満 | 2(1/0) | |
小計 | 2(1/0) | ||
合計 | 232(15/8) | ||
大正13年度 | 動力なし | 5t(50石)未満 | 224(11/15) |
小計 | 224(11/15) | ||
動力あり | 10t未満 | 1(1/0) | |
10~20t | 1(0/4) | ||
小計 | 2(1/4) | ||
合計 | 226(12/19) | ||
昭和4年度 | 動力なし | 5t未満 | 261(18/0) |
小計 | 261(18/0) | ||
動力あり | 5t未満 | 11(0/0) | |
10~20t | 1(0/0) | ||
小計 | 12(0/0) | ||
合計 | 273(18/0) | ||
昭和9年度 | 動力なし | 5t未満 | 235(9/12) |
10~20t | 2(0/0) | ||
小計 | 237(9/12) | ||
動力あり | 5t未満 | 77(34/5) | |
小計 | 77(34/5) | ||
合計 | 314(43/17) | ||
昭和14年度 | 動力なし | 5t未満 | 218(4/8) |
小計 | 218(4/8) | ||
動力あり | 5t未満 | 133(12/13) | |
小計 | 133(12/13) | ||
合計 | 351(16/21) | ||
出典:福岡県『福岡県統計書』 | |||
注1:漁船数の括弧内は「新造漁船/廃用漁船」の数を示す | |||
注2:漁船規模の表記単位は、船長を示す間(1間=約1.818m)から積載能力を示す t(1t=約2.83)と石(1石=約27.818)に変化している | |||
注3:昭和9年度の「動力なし・5t未満」の船は、『福岡県統計書』で「253隻」と 表記する。誤記とみなし訂正した |
大正期の蓑島浦漁業者は、沖に設置した桝網から漁獲物を運搬する際に、市場などの漁獲物運搬動力船を借用することもあった。動力漁船は、まだ導入されていないが、漁業の動力化の一端を示している。その後昭和初期には、桝網や釣漁業、サワラ流網にも導入されたとみられる。
京都郡内の大正・昭和初期の漁業の特徴として、動力漁船の導入のほかに、採貝活動や養殖事業の活発化と魚価の上昇があげられる。貝類の漁獲はシオフキガイやアサリなどで、生産量は大正八年以降横ばい傾向だが、大正三年の生産量と比べて約一・五倍前後に増加した。
養殖事業は、明治期以降継続してコイが養殖され、新たにウナギやスッポン、ボラなども養殖された。蓑島魚問屋の磯村家は、大正一〇年にクルマエビの養殖(写真8)を開始し、東京や中津を主な市場とした。また蓑島の畑中家文書によると、大正一三年に蓑島村西南岸地先でのカキ養殖を申請しているが、その後の展開は不明である。豊前海におけるカキ養殖は度々試されるが、稚貝の時期にほとんど死滅するために事業化できていない、と昭和七年(一九三二)の『福岡水産試験場要覧』で指摘されており、困難な事業の一つであった。
最後に魚価は、大正三~七年の第一次世界大戦中とその直後に高騰し、郡内における大正一三年の魚価は、大正三年の約七倍に上昇した。こうした魚価の高騰は、産炭規模の拡大などに伴う需要の増大によるものであった。漁獲量の増大や、農業兼業としての採貝または養殖業の発達をもたらした。
昭和期に入っても魚価は高水準を保ち、昭和四年度には漁船数の増加に反して、漁獲高は伸びを示さなかったが、魚価高値により漁獲物総価格は上昇傾向を維持していた。昭和九年頃には、恐慌の影響から、魚価は大幅に低落した。同一四年頃には、戦時統制経済の影響から物価高となり、特にタイとクロダイが高値を付け、漁獲物総価格は大正一三年度の約三倍の伸びを示した。なお昭和一四年度の統計によると、郡内の漁業者数は戦争の影響を受け減少するが、漁船数や漁獲高は伸びを示していた。