昭和初期の漁業集落

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 昭和二年(一九二七)に、福岡県水産課が県下漁業集落について、詳細な調査をしている。これをまとめた表31と表32をみると、部落構成や船数、操業内容などが詳細に分かる。明治初期の漁業と比較すると、繰網(表32では引網類)や延縄漁業の多様化など、漁業技術開発の進展を確認できる。各漁業集落の特徴について、この調査結果から簡単にまとめたい。
 
表31 昭和2年漁業集落概況
 漁業者数漁獲金高漁船
専業(人)兼業(人)総数(人)地元(円)出稼(円)総額(円)機船(隻)和船(隻)総数(隻)
蓑島浦1406020088,20514,000102,2053100103
沓尾浦1072513242,8823,90046,78216263
稲童浦41438420,1652,70022,86512829
長井浦1363710,218010,218015115
合計289164453161,47020,600182,0705205210
出典:福岡県水産課『福岡県漁村調査』昭和4年

表32 昭和2年漁業集落別漁具表
漁具漁業集落員数・隻数平均漁獲金額総額(円)
刺網類刺網及び曲建網底建網稲童浦440160
コチ建網蓑島浦25001,000
沓尾浦36501,950
長井浦1300300
稲童浦35001,500
流網サワラ流網蓑島浦35001,500
掩網(カブセ)類投網蓑島浦10880
抄網(スクイ)類アミ刺網蓑島浦2025500
沓尾浦30501,500
長井浦37602,220
稲童浦21020
アミ抄網沓尾浦30501,500
ウナギ柴漬抄網沓尾浦11,2001,200
敷網類四手網沓尾浦15050
イナ洲引網沓尾浦350150
引網類地引網徒歩地引網長井浦32575
船引網(引寄網)手繰網(吾智網)蓑島浦1050500
沓尾浦251002,500
長井浦680480
イカ柴漬手繰網(巣引網)蓑島浦362007,200
沓尾浦501507,500
長井浦6160960
稲童浦18080
キス繰網蓑島浦251002,500
沓尾浦201202,400
イシモチ繰網(キイロ、中繰)蓑島浦40803,200
沓尾浦40903,600
長井浦1300300
ナマコ漕網(桁網)蓑島浦3030900
稲童浦625150
船引網(引廻網)打瀬網沓尾浦123504,200
稲童浦27501,500
小打瀬網長井浦290180
稲童浦52701,350
雑魚船引網蓑島浦1050500
旋網類ボラ旋網沓尾浦14040
稲童浦11,3001,300
建網類桝網蓑島浦172,86048,620
沓尾浦81,62412,992
長井浦2450
稲童浦1770011,900
釣漁具延縄タイ延縄蓑島浦15901,350
フグ延縄蓑島浦101001,000
フカ延縄蓑島浦715105
チヌ延縄蓑島浦301805,400
沓尾浦2350700
ハモ延縄蓑島浦151802,700
アナゴ延縄蓑島浦1070700
稲童浦12525
イイダコ延縄蓑島浦152003,000
カニ延縄蓑島浦60905,400
沓尾浦1050500
メバル延縄蓑島浦530150
雑漁具採貝蓑島浦60402,400
沓尾浦45904,050
長井浦279213
タコ壺稲童浦1150
石倉稲童浦1055550
石干見稲童浦101501,500
採藻沓尾浦4510450
出典:福岡県水産課『福岡県漁村調査』昭和4年

【蓑島浦】四漁業集落のうち最も漁業が盛んで、専業漁業者数は郡内でも最大であった。多様な網漁と延縄漁が行われ、桝網で山口県や大分県に出稼ぎに行く漁業者もいた。表32の掩(かぶせ)網類の投網は、ボラ漁で、引網類の吾智(ごち)網は、明治三〇年頃から豊前海で操業が開始されたクルマエビ漁である。
 昭和二年頃の漁業動向として、カニ延縄漁業の勃興と打瀬網漁業の廃滅、サワラ流網と延縄漁の不振があげられている。打瀬網漁業は、香川県の漁業者が入漁するのみとなった。養殖業は、魚問屋磯村家のクルマエビ養殖のほかに、昭和元年度から蓑島村漁業組合が、今川支流の河口でアマノリとカキの養殖を開始している。
 
写真9 蓑島漁港での網干し(昭和初期)
写真9 蓑島漁港での網干し(昭和初期)

【沓尾浦】蓑島浦の次に漁業生産額の高い沓尾浦は、今元村の漁業集落で、網漁を主とし、カニ延縄漁も行われた。祓川河口では、四手網というシラウオ漁も行っていた。昭和二年に沓尾浦漁業組合員の一部が、ボラ旋建網の共同経営を開始している。また、仲津村長井浦に桝網が出稼漁業を行い、香川県から打瀬網の入漁がみられた。
 
写真10 沓尾祓川河口(昭和初期)
写真10 沓尾祓川河口(昭和初期)

【稲童浦】沓尾浦の次に漁業生産額の高い仲津村稲童浦には、石干見・石倉(沿岸河口でのウナギ漁)などの干潟漁業がみられる。これは稲童浦の「岡」部に住む農家の兼業者によるもので、このほかに採貝・採藻にも従事した。同浦の「浜」部には漁業専業者がおり、桝網やボラ旋網(共同経営)などを主に操業し、対馬や築上郡八津田(はつた)村(現椎田町)で桝網の出稼ぎ漁業も行った。地元に漁夫が少ないため、大分県下から雇用して労働力不足を補っていた。専業漁業者は地元魚市場に多額の負債を抱え資金欠乏となり、手繰網や延縄漁業の衰亡につながった。また打瀬網や建網にも、減退傾向が生じていた。なお、香川県から打瀬網の入漁があった。
【長井浦】長井浦での漁業は、農家の副業としての色彩が濃く、漁業者三七名のうち専業者は一人にすぎない。漁船は一五隻の小・中型和船で動力化に至っていないが、増加傾向にあり、漁業発達の機運があると指摘されている。
 出稼ぎはなく、香川県から打瀬網、今元村沓尾浦から桝網の入漁があった。
 最後に、昭和二年における四漁村の漁獲物製造加工の実態を述べる。製造品は、摺海老と肥料の〆粕(しめかす)の二種である。摺海老は、蓑島・仲津・今元各村で製造され、いずれもアカエビを原料とする。主な移出先は、仲津・今元両村が長崎市、蓑島村は神戸と長崎であった。三カ村のうち、今元村の製造斤高が最も高く、斤当たり値段は、今元・蓑島両村が同額で、仲津村はこれらに次いだ。なお、蓑島村では明治期に引き続き、味真海老という調味加工品が製造されていたが、調査に反映されていないとみられる。
 〆粕も仲津・今元・蓑島各村で製造され、仲津村はエビ粕やエビ眼など摺海老加工に不要な物を原料とし、蓑島村では打瀬網にかかる雑魚を原料とした。なお、この頃に蓑島村でエビ加工に携わっていた丸谷久夫家文書によれば、仲津村のようにエビ粕なども原料としていた。仲津・蓑島両村は大分県中津町、今元村は周辺地域を移出先とした。製造斤高は三カ村のうち今元村が最高で、斤当たりの値段は蓑島村が格別に高かった。