昭和一二年の日中戦争勃発に伴い統制経済が実施され、石油、網材など漁業用資材が次第に不足するようになった。同一三年以降は、福岡県漁業組合連合会が漁業用資材を配給していた。また、漁業者が戦時要員として応召され、生産は減少傾向に陥り、供給不足から魚価は上昇した。
魚価のみならず物価全般が上昇したため、昭和一三年に公定価格を定める物品価格取締規則が公布された。翌年一〇月に物価統制令が公布され、九月一八日の水準ですべての物価が凍結されたが、統制の困難さから、生鮮食料品の大部分は除外されていた。このため生鮮物価は高騰を続け、昭和一五年に生鮮食料品の配給統制および価格抑制に関する応急対策がとられた。これは、水産物の出荷統制と配給ルートの整備を目的としたもので、陸揚地と集荷場を農林大臣と知事が選定し、そこから水産物を県内外の指定消費地市場や軍部に送ることとなった。県内では福岡と戸畑に集荷組合を確認できるが、京都郡近辺については不明である。
昭和一八年三月に水産業団体法が公布され、漁業組合、漁業協同組合、水産会などを統合して、漁業用資材および水産物の配給統制を系統機関に一本化されることになった。これにより、全国には中央水産業会、県には県水産業会、漁村には漁業会が置かれることになった。九月の同法施行後、漁業組合・漁業協同組合は漁業会に強制改組され、同年末に福岡県漁業組合連合会も福岡県水産業会に強制改組された。
漁業用資材配給が不足するなか、県は水産試験場で魚礁造成やアサリの増殖、五~六隻での共同引船による石油節減などを研究し、生産減少に歯止めをかけようとしていた。公定価格制のもと漁業者の生活は困難になり、水産物の闇取引が横行し、蓑島や沓尾の漁業者が、豊津駅で田川の買い手に売却することもあったという。