明治前期の行橋商人

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 以上から明らかなように、行橋は豊前の商品流通の中心的位置を占めていたが、これはこうした商品流通にかかわる商人が行橋を拠点にしていたことを意味する。当時の商人の様相を知ることのできる資料は少ないけれども、明治二三年の行橋町成立以前に出版された『福岡県繁栄商家独案内』には、行橋の商人として五六名が挙げられている。表35がそれであるが、同表によれば、米問屋と呉服太物商が兼業も含めそれぞれ一〇名と最も多くなっている。いずれの商業地でも、呉服太物商は数も多く、有力商人も多い。行橋でも、米原善六、米原七平、佐藤音松、広瀬一郎など有力商人が多い。一方、米問屋をはじめとする米商が多くを占めるという点は、行橋の特徴となっている。これは、前述したように、行橋が豊前地域の米穀移出の中心であったことを反映していると考えていい。表35にはあげられていないが、柏木勘八郎も明治二一年頃米商組合員であり、豊前六郡の米商組合長であった。
 
表35 明治前期行橋の商人
氏名業種住所
玉江彦右衛門飴商行事駅616番地
中原保二米商・荒物類・塩物類行事博多町
広瀬市郎呉服・太物・荒物類行事本町
重台弥助鬢付・履物行事西町
榎平次郎米仲買・煙草・荒物類行事
山本忠蔵清酒醸造・醤油製造行事
後藤団治丹材木・洋釘行事
成定治六米商・生蝋問屋行事博多町
佐藤音松質屋・太物・荒物類行事
宮崎弥平米商・問屋・荒物類行事博多町
山本勝平荒物・呉服・太物行事博多町
福島甚六生蝋販売取扱行事出店町
桝見竹市石油・紡績糸行事出店町
桝見茂兵薬種商、健脾丸行事出店町
福島吉次諸油行事出店町
武田又蔵陶器卸大橋西町
米田定平材木・建具大橋西町
佐々木茂三郎正米問屋・定宿大橋
中原多三郎洋服調進所大橋991番地
肥田武市清酒醸造大橋西町
玉池勝次書籍・諸紙類大橋西町
古賀仙平質屋・太物・荒物・古着大橋西町
進常蔵万国物品取扱問屋・上方持ち下がり宿・諸売薬取扱・漆金箔絵具類大橋西町
坂井信造薬種商・洋酒・絵具・漆大橋中町
森住悦太郎生塩魚問屋大橋中町
井上嘉吉呉服・太物・洋反物大橋中町
井上仙吉畳表・花蓙・布地・傘大橋中町
城戸庄平質屋大橋中町
米原七平呉服・太物・洋物商・紡績糸取扱所大橋東町
米原善六呉服・洋反物 
明石彦太郎油・砂糖・荒物・酒類大橋東町
富田庄三郎米問屋大橋東町
飯山末太郎米商仲入仲買問屋商大橋東町
森定蔵醤油醸造大橋新町
久松熊太郎酒類・荒物・菓子・板硝子・ランプ大橋南本町
長野源七書画骨董・神仏器具・古金銀鋼潰・古物大橋南本町
松浦建蔵和洋反物・帽子・洋傘・ケット類大橋南本町
白川安太郎鍋釜・古着・和洋端物類大橋南本町
白川伴三郎呉服・太物・洋端物・古着・小紬類・嫁入道具一切大橋南本町
村松政五郎煙草販売大橋南本町
中野省二米仲買・砂糖・雑穀・七島表大橋南本町
三宅啓太郎薬種商・売薬・綿糸類・唐物・太物大橋南本町
三宅増蔵売薬商・薬種類・種油・石油・砂糖大橋南本町
森 昇蔵酒類・諸油・米商大橋南本町
山口利平諸印紙売捌所・油類・鬢付類・紙類・紅白粉大橋南本町
三津木定一小間物一切・袋物大橋南本町
三宅雄司醤油酢卸大橋南本町
進丈平金物・鍋釜類大橋南本町
野口平次郎酒類売捌所大橋南本町
小野円六旅人宿屋大橋南本町
西村平治印判板木彫刻師・唐洋朱青黒肉種々引札散シ諸摺物製造所大橋南本町
松村建三鉄釼・荒物 
加来小市米問屋大橋門樋
浦田重吉米問屋大橋門樋
出典:『福岡県繁栄商家独案内』明治22年(推定)

 呉服太物、米問屋に次ぐのは荒物商、薬種商、醸造業、質商などであるが、荒物商はすべて他業との兼業である。醸造業や質商はいずれの都市でも有力商が多く、行橋でも醸造業や質屋に有力商を見出すことができる。豊前に移入される薬種の七割が行橋に入荷した点から推察できるように、行橋の薬種商の規模は地方の小町村に拠点をおく割には規模が大きかったようである。なかでも桝見茂平は手広く薬を商う一方、自ら「健脾丸」の製造も行っていた。京都郡には行商などの売薬業者が明治三〇年頃二八八人いたとされ(「門司新報」明治三〇年一〇月三〇日)、桝見商店は薬種問屋として彼らに薬を卸していたと考えられる。
 行橋の商業としてもう一つ注目すべき業種は、製蝋業あるいは生蝋取扱商である。ここに挙げられているのは二名であるが、玉江彦太郎『小倉藩御用商行事飴屋盛衰私史』などによれば、玉江彦右衛門、柏木勘八郎、進栄蔵らが「板場商」(製蝋業)としてあげられている。豊前の製蝋業の中心地は田川郡であり、その多くが行橋に集められて大阪に移出された。ただ、明治期に入ると、製蝋業は徐々に下降線をたどり、その衰退とともに製蝋商も衰退していった。
 
写真11 明治時代、行橋町の商店が得意客に配った引札
写真11 明治時代、行橋町の商店が得意客に配った引札

 有力商人を見ると、前述の呉服太物商のほか、米商の宮崎弥平や加来小市、森昇蔵、生蝋取扱業の福島甚六、薬種商の桝見茂平、坂井信造、醸造業の肥田武市、山本忠蔵、質屋業の佐藤音松(呉服商兼業)、城戸庄平らをあげることができる。これら有力商人の所得水準を福岡・博多や小倉の商人と比べると、明治三三年時点ではそれほどの遜色はない。ただし、行橋の有力商人は地主であることが多く、これら所得の源泉が小作料に負うことが多かったのかもしれない。少なくとも福島甚六や米原善六は当時地価一万円以上の土地をもつ大地主でもあった。
 前掲表35によって明治前期の行橋商人を町別に見ると、行事一五軒、大橋四一軒と大橋のほうが多くなっており、なかでも大橋の南本町に最も多くの商店が集まっていたことがうかがえる。ただし、明治二〇年代には行事側に有力商人が多く、商業の中心が大橋側に移っていたわけではない。鉄道の敷設によって陸運が発展する以前は、長狭川が物流の拠点となっており、同川を挟む地域が行橋商業の中心であった。