表35 明治前期行橋の商人 | ||
氏名 | 業種 | 住所 |
玉江彦右衛門 | 飴商 | 行事駅616番地 |
中原保二 | 米商・荒物類・塩物類 | 行事博多町 |
広瀬市郎 | 呉服・太物・荒物類 | 行事本町 |
重台弥助 | 鬢付・履物 | 行事西町 |
榎平次郎 | 米仲買・煙草・荒物類 | 行事 |
山本忠蔵 | 清酒醸造・醤油製造 | 行事 |
後藤団治 | 丹材木・洋釘 | 行事 |
成定治六 | 米商・生蝋問屋 | 行事博多町 |
佐藤音松 | 質屋・太物・荒物類 | 行事 |
宮崎弥平 | 米商・問屋・荒物類 | 行事博多町 |
山本勝平 | 荒物・呉服・太物 | 行事博多町 |
福島甚六 | 生蝋販売取扱 | 行事出店町 |
桝見竹市 | 石油・紡績糸 | 行事出店町 |
桝見茂兵 | 薬種商、健脾丸 | 行事出店町 |
福島吉次 | 諸油 | 行事出店町 |
武田又蔵 | 陶器卸 | 大橋西町 |
米田定平 | 材木・建具 | 大橋西町 |
佐々木茂三郎 | 正米問屋・定宿 | 大橋 |
中原多三郎 | 洋服調進所 | 大橋991番地 |
肥田武市 | 清酒醸造 | 大橋西町 |
玉池勝次 | 書籍・諸紙類 | 大橋西町 |
古賀仙平 | 質屋・太物・荒物・古着 | 大橋西町 |
進常蔵 | 万国物品取扱問屋・上方持ち下がり宿・諸売薬取扱・漆金箔絵具類 | 大橋西町 |
坂井信造 | 薬種商・洋酒・絵具・漆 | 大橋中町 |
森住悦太郎 | 生塩魚問屋 | 大橋中町 |
井上嘉吉 | 呉服・太物・洋反物 | 大橋中町 |
井上仙吉 | 畳表・花蓙・布地・傘 | 大橋中町 |
城戸庄平 | 質屋 | 大橋中町 |
米原七平 | 呉服・太物・洋物商・紡績糸取扱所 | 大橋東町 |
米原善六 | 呉服・洋反物 | |
明石彦太郎 | 油・砂糖・荒物・酒類 | 大橋東町 |
富田庄三郎 | 米問屋 | 大橋東町 |
飯山末太郎 | 米商仲入仲買問屋商 | 大橋東町 |
森定蔵 | 醤油醸造 | 大橋新町 |
久松熊太郎 | 酒類・荒物・菓子・板硝子・ランプ | 大橋南本町 |
長野源七 | 書画骨董・神仏器具・古金銀鋼潰・古物 | 大橋南本町 |
松浦建蔵 | 和洋反物・帽子・洋傘・ケット類 | 大橋南本町 |
白川安太郎 | 鍋釜・古着・和洋端物類 | 大橋南本町 |
白川伴三郎 | 呉服・太物・洋端物・古着・小紬類・嫁入道具一切 | 大橋南本町 |
村松政五郎 | 煙草販売 | 大橋南本町 |
中野省二 | 米仲買・砂糖・雑穀・七島表 | 大橋南本町 |
三宅啓太郎 | 薬種商・売薬・綿糸類・唐物・太物 | 大橋南本町 |
三宅増蔵 | 売薬商・薬種類・種油・石油・砂糖 | 大橋南本町 |
森 昇蔵 | 酒類・諸油・米商 | 大橋南本町 |
山口利平 | 諸印紙売捌所・油類・鬢付類・紙類・紅白粉 | 大橋南本町 |
三津木定一 | 小間物一切・袋物 | 大橋南本町 |
三宅雄司 | 醤油酢卸 | 大橋南本町 |
進丈平 | 金物・鍋釜類 | 大橋南本町 |
野口平次郎 | 酒類売捌所 | 大橋南本町 |
小野円六 | 旅人宿屋 | 大橋南本町 |
西村平治 | 印判板木彫刻師・唐洋朱青黒肉種々引札散シ諸摺物製造所 | 大橋南本町 |
松村建三 | 鉄釼・荒物 | |
加来小市 | 米問屋 | 大橋門樋 |
浦田重吉 | 米問屋 | 大橋門樋 |
出典:『福岡県繁栄商家独案内』明治22年(推定) |
呉服太物、米問屋に次ぐのは荒物商、薬種商、醸造業、質商などであるが、荒物商はすべて他業との兼業である。醸造業や質商はいずれの都市でも有力商が多く、行橋でも醸造業や質屋に有力商を見出すことができる。豊前に移入される薬種の七割が行橋に入荷した点から推察できるように、行橋の薬種商の規模は地方の小町村に拠点をおく割には規模が大きかったようである。なかでも桝見茂平は手広く薬を商う一方、自ら「健脾丸」の製造も行っていた。京都郡には行商などの売薬業者が明治三〇年頃二八八人いたとされ(「門司新報」明治三〇年一〇月三〇日)、桝見商店は薬種問屋として彼らに薬を卸していたと考えられる。
行橋の商業としてもう一つ注目すべき業種は、製蝋業あるいは生蝋取扱商である。ここに挙げられているのは二名であるが、玉江彦太郎『小倉藩御用商行事飴屋盛衰私史』などによれば、玉江彦右衛門、柏木勘八郎、進栄蔵らが「板場商」(製蝋業)としてあげられている。豊前の製蝋業の中心地は田川郡であり、その多くが行橋に集められて大阪に移出された。ただ、明治期に入ると、製蝋業は徐々に下降線をたどり、その衰退とともに製蝋商も衰退していった。
有力商人を見ると、前述の呉服太物商のほか、米商の宮崎弥平や加来小市、森昇蔵、生蝋取扱業の福島甚六、薬種商の桝見茂平、坂井信造、醸造業の肥田武市、山本忠蔵、質屋業の佐藤音松(呉服商兼業)、城戸庄平らをあげることができる。これら有力商人の所得水準を福岡・博多や小倉の商人と比べると、明治三三年時点ではそれほどの遜色はない。ただし、行橋の有力商人は地主であることが多く、これら所得の源泉が小作料に負うことが多かったのかもしれない。少なくとも福島甚六や米原善六は当時地価一万円以上の土地をもつ大地主でもあった。
前掲表35によって明治前期の行橋商人を町別に見ると、行事一五軒、大橋四一軒と大橋のほうが多くなっており、なかでも大橋の南本町に最も多くの商店が集まっていたことがうかがえる。ただし、明治二〇年代には行事側に有力商人が多く、商業の中心が大橋側に移っていたわけではない。鉄道の敷設によって陸運が発展する以前は、長狭川が物流の拠点となっており、同川を挟む地域が行橋商業の中心であった。