明治年間、行橋の商業は行橋の人口の漸増とともに発展していたと考えられるが、それを直接伝える資料は残されていない。明治四三年の警察取締の諸営業の動向などによって、当時の行橋の賑わいぶりを見てみよう。明治三九年の京都郡の商業人口は専業、兼業合わせおよそ六二〇〇人で、全人口の一四%を占めていた。その多くが行橋で営業を営んでいたと考えて差し支えない。明治四三年、行事警察署管内(管轄は京都郡)での取締諸営業は以下のようであった。
古着商四八、質屋二四、旅人宿三一、木賃宿一九、雇人周旋営業二、下宿屋四七、料理屋三四、飲食店九二、獣肉販売店一六八、湯屋二五、氷雪販売人九〇、乗合馬車営業人六、人力車営業人七二、自転車販売人一、鍛冶工場五八、瓦製造所四九、石灰製造所一六、靴製造所八、精米所一三、活版印刷所三、石版印刷所三、定劇場一、芸妓三五、理髪業一一七、代書業二〇、清涼飲料水営業人三〇三(以上『福岡県統計書』による)。
ここから、行橋駅前には乗合馬車や人力車が待機し、暑い盛りに清涼飲料水が次々に売れていく様が想像できようし、肉屋の軒数から当時の人々が意外と肉を食べていたのも汲み取ることができる。古着屋も大いに利用されていた事もうかがえよう。
行橋は豊前の中心都市として着実に発展していたが、大正五年の鉄道工場の小倉移転は行橋の商工業に大きな打撃を与えた。大正九年の統計によってその影響を見ておくと、京都郡では、旅人宿二七、木賃宿一二、下宿屋四、料理屋二五、飲食店六一、湯屋一五、理髪業八四、人力車営業八八、清涼飲料水販売二七八、獣肉販売一九一、自転車販売業八となっており、人力車営業と獣肉販売、自転車販売業を除き、明治四三年と比べ軒並み減少していることがわかる。大正九年は大戦期のブームが色濃く残っているにもかかわらず、多くの営業者数がかなり落ち込んでいる点に、行橋商工業の打撃の大きさをうかがうことができよう。