明治二八年に宮市に行橋駅が設置されてから、商業の中心は駅に近い大橋側に次第に移っていったが、駅周辺の数十町歩は依然農耕地のままであった。大正九年、町長に就任した徳田伊勢次郎は町の発展のために駅前市街化を企図し、地主を説得して行橋町耕地整理組合を設立し、自ら組合長に就任した。大正一四年、同組合による区画整理によって、行橋駅前に南北六本、東西七本の碁盤目の道路が作られ、整然とした新市街地が完成した。
新市街地内での家屋建設は工事着工とともに始まり、整然と区画整理された新市街地が完成すると、移転希望者や進出希望企業が殺到した。完成後十数年のうちにほとんど空き地がなくなるほどであった。事務所や映画館、工場、銀行、病院などが次々と進出した。
昭和一一年当時の市街地の地図を示しておくと、図7のようになる。まだ、西町や中町に商店街が多いことがわかるが、駅前通や魚町にも多くの商店が軒を連ねている様子が見て取れよう。