昭和前期の商業

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 昭和初年、日本は「昭和恐慌」という未曽有の恐慌に陥った。この恐慌はあらゆる人々に打撃を与えたが、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。農村とともに主として農村に市場をもつ地方商工業も大きな打撃を被ることになった。行橋の商業も周辺地域の農村の購買力に依存する度合いが大きく、安田銀行行橋支店の報告によれば、「引続ク農村不況ニ禍セラレ商業不振タルヲ免レ」なかった。
 農村不況も打撃であったが、不況克服のために政府が進めた産業組合拡充政策も、行橋のような地方商業者にとってさらに深刻な問題であった。というのは、産業組合の設立以前は、農民は米を商人に販売せざるを得なかったし、割高な肥料を商人から購買していたが、産業組合設立後は同組合を通じて共同購入や共同販売を行うようになり、米穀商や肥料商は次第に農産品の流通から排除され始めたからである。農民は、産業組合の農業倉庫に米穀を保管し、その倉庫証券があればいつでも産業組合(信用組合)から融資を得ることができるので、米価が有利な時に売ることができるようになったのである。昭和恐慌期には政府の積極的な普及策によってこの地域でもすべての町村に産業組合が設立され、行橋駅前には産業組合関連の倉庫が軒を連ねた。
 不況下の行橋商業者を見てみよう。表37は行橋の商業者を行橋町『営業ヨリ生スル所得調査書』によって地域別に見たものである。これによると、行橋町には営業所得のある者が五一六名であったが、最も商店の多いのが門樋、宮市であり、博多町、田町、中町がそれに次いでいる。しかし、一人当たり所得から見て門樋、宮市、博多町などは規模の小さい小売商が多かったようである。これに対し、かつての中心的な商店街であった西町、中町、東町には、商店数は少ないものの比較的規模の大きい商店が多かったと考えられる。
 
表37 昭和初期の商業者
(単位:円、人)
住所所得額人員平均所得
大橋西町38,987381,026
古辺野2,2665453
中町41,049401,026
東町26,304181,461
下正路町3,6636611
下道4,35013335
前川2,2555451
新町9364234
金剛丸2,6858336
明治町18,75933568
新古辺野14,13422642
門樋27,06556483
神田町1,4045281
南本町35,69638939
川越1,0385208
出店町14,17624591
中島4,31541,079
宮市37,78656675
田町30,95243720
海山5401540
博多町26,14046568
堺町1,8223607
米町3851385
行事西町6,1737882
本町13,27316830
京町4,09814293
東町3,2655653
合計364,236516706
出典:行橋町『営業ヨリ生スル所得調査書』昭和2年度
備考:合計は合わないが、原資料のままとした

 表38によって行橋の商人の特徴を見てみよう。同表には所得一〇〇〇円以上の人々を挙げたが、これによれば、営業所得一〇〇〇円以上ある商業者はわずか一〇六人に過ぎなかった。この一〇六人を除く四一〇名の平均所得はわずか三五七円である。当時所得税の課税最低限が一二〇〇円であったから、商業以外に所得があったとしても、行橋の商人が極めて零細であったことがこの平均所得から推定できよう。
 
表38 昭和初期の行橋の有力商人(単位:円)
氏名業種住所昭和2年営業所得昭和2年所得額営業所得比率
米原善六呉服東町7,50020,25037
小松健治弁当田町5,7005,89697
松浦彦郎呉服中町5,3405,46998
瀧豊二金物西町4,900  
加来源助穀物、煙草、肥料門樋町4,5155,44583
肥田源太郎酒製造門樋町4,27812,72234
蜂谷政吉呉服中町3,9004,36289
植山仙太郎乾物南本町3,8904,18793
三宅重太郎呉服東町3,8503,850100
三宅豊太郎質屋、煙草東町3,8453,93598
山本紋治酒製造博多町3,7965,51169
肥田五郎西町3,770  
原田寅平雑貨宮市3,7603,760100
山田作太郎履物、雑貨、材木、諸負新古辺野3,6154,71377
富田節太郎呉服東町3,6003,76096
広瀬佐十郎呉服本町3,3904,07183
玉井美知穂醤油製造行事西町3,2559,22335
宮崎ハル穀物博多町3,2004,03879
小松幸吉履物南本町3,15018,72217
前田勝太郎荒物南本町3,1503,93180
竹内鉄三陶器中町2,8503,70277
福田八十材木建具東町2,700  
大村茂煙草、菓子西町2,685  
岩生平六煙草、雑穀出店町2,662  
山口源市諸油中町2,4302,380102
藤井誠市料理屋田町2,4002,400100
田原五郎料理屋、牛肉中町2,3502,251104
進市蔵呉服西町2,350849277
玉江勝次郎自転車修繕明治町2,320  
山田五郎吉肥料下正路2,250  
中里久太郎雑貨中町2,2402,32496
山本徳一小間物中町2,2002,050107
有松米蔵味噌、雑穀出店町2,200258852
河野マツ雑穀西町2,200  
三津木常吉小間物南本町2,1601,979109
森住賢二乾物、置屋中町2,1552,17499
小野田安太郎荒物、煙草南本町2,1032,64879
長野常雄乾物、雑穀明治町2,0502,050100
大池千太郎醤油醸造新古辺野2,0193,00267
進友市煙草、穀物南本町2,000  
石田菊松肥料陶器荒物煙草博多町1,9941,994100
桑野定五郎石炭練炭本町1,8941,834103
銅崎格市醤油醸造門樋町1,8804,87939
佐々木鶴松煙草元売捌出店町1,8131,83499
末広潤治菓子中町1,8001,781101
白石隆司雑穀西町1,800  
中原仁六料理屋、置屋中町1,7651,506117
山本鹿蔵綿糸中町1,7501,680104
片山一郎秣草東町1,7201,77297
虎谷熊五郎紙文具中町1,7101,75797
泉庄太郎乾物西町1,710  
佐島虎一雑穀、砂糖南本町1,6571,587104
大島芳太郎宿屋宮市1,6501,90487
楠見利市家具中町1,6401,430115
浜田飛蔵菓子卸南本町1,600  
小柳六根太郎麺類製造新古辺野1,5801.541103
樽野イワ料理屋、置屋西町1,5641,564100
岡村義継薬種博多町1,5601,560100
江原栄一菓子製造西町1,560  
玉池ハツ紙文具西町1,540  
米谷直市菓子南本町1,5201,75687
高山巳三郎煙草、酒明治町1,5171,497101
小森繁松呉服博多町1,500940160
原口満雄乾物、雑穀宮市1,500  
小田治郎吉運送業田町1,4731,90377
細川安太郎製材博多町1,4501,83579
富士本龍之助醤油酒本町1,4231,70384
石井幸吉煙草、乾物本町1,420  
横尾国松魚類中町1,400  
稲田仙次郎薬種田町1,3501,310103
友岡要蔵弁当かしわ古辺野町1,3501,169115
末本幸之助穀物精米博多町1,3481,348100
森住悦太郎煙草、乾物中町1,3383,94234
細川定治煙草、穀物堺町1,312  
古槙弥作印刷出店町1,3001,090119
橋本喜平駅売り、飲食店宮市1,2941,77573
重枝為七煙草、雑貨西町1,2871,287100
池上日吉鶏獣肉宮市1,2801,280100
森政市料理屋田町1,280760168
小林幸吉洋服出店町1,2751,135112
飯山善次郎穀物、肥料門樋町1,2501,90066
門田市太郎魚類宮市1,2501,250100
樽野豊吉駅売田町1,2152,14057
亀山清太郎新聞、肥料他出店町1,2101,28794
大鶴リツ明治町1,200990121
藤井準治鶏獣肉行事西町1,200850141
井原卯一郎穀物、精米宮市1,200  
小林熊太郎魚類宮市1,1701,19098
中野吉蔵醤油、陶器、酒南本町1,1131,57071
林田又重履物、醤油製造博多町1,092741147
富田エイ質屋賃貸東町1,089  
寺本清次郎綿、有価証券田町1,0651,72762
定石千代松乾物、煙草明治町1,0551,27883
松浦健一郎小間物中町1,0501,20088
岩崎勇宮市1,0501,050100
中村吉三郎菓子製造宮市1,0501,050100
堀川杉松菓子製造明治町1,050842125
細川伝蔵料理屋田町1,050660159
津田多蔵料理屋、置屋西町1,033823126
住野吉次蒟蒻、油、酢南本町1,030  
井上平治履物西町1,026  
橋本新次郎魚類宮市1,0001,91652
三津木啓蔵雑貨南本町1,0001,000100
門田安吉宿屋宮市1,0001,000100
川中弥一魚類中町1,000890112
出典:行橋町『営業ヨリ生スル所得調査書』昭和2年、行橋町「昭和二年度県税戸数割賦課額」

 有力商人の業種を見ると、以前同様、呉服商や醸造業者の多いことが同表から読み取れる。米穀商や肥料商もこの時点では依然、有力商人の一角に名を連ねている。有力商といっても、京都郡の酒造業の一社あたりの蔵石高は県内でも最も少なく、総じて零細であったし、呉服商も小倉や博多の呉服商とは比べ物にならないほど小さかった。
 ところで、同表からはかつての最有力商人であった製蝋商や薬種商は姿を消している。電気の普及とともに蝋の需要は著しく減少していて、廃業せざるを得なかったし、漢方薬も近代的な製薬会社の製品に押され、地方の薬の製造販売業者は利益の薄い販売業者に甘んじるほかなかったためであろう。しかし、こうしたかつての有力商人は決して没落したわけではない。かつて製蝋問屋を営んでいた福島家や有力薬種業者であった桝見家あるいは呉服商の米原七兵衛家は家業を縮小あるいは廃業したが、地主として有数の資産家としての地位を維持していた。
 これに対し、大きく成長したのは弁当販売を軸とする駅売り業者と菓子製造販売業者である。駅売り業では所得二位の小松健治をはじめ、稲田仙次郎、橋本喜平、樽野豊吉がこのリストに名を連ねている。駅売りは鉄道輸送の発展とともに増大し、彼らは行橋の有力商人になっていった。なお、行橋の駅弁は門鉄管内では「品質調理包装」から最上の弁当との折り紙がついていた(「門司新報」大正一〇年七月一六日)。
 一方、菓子製造業は大村茂をはじめ七軒が一〇〇〇円を超える所得を得ている。こうした嗜好品の製造業者の増大はこの地域の人々の消費生活の多様化を反映しているといっていい。都市の発展と比べるとこの地域は停滞的であったが、それでも第一次大戦後以降、明治紡績をはじめとする工場、官公庁や金融機関支店の進出などによって次第に勤労所得者も集積し、都市化とともに消費の多様化が進んでいたのである。肉屋や印刷業がこのリストに名を連ねているのもこうした点を裏付けていよう。