国立銀行条例とその改正

157 ~ 158 / 840ページ
 行橋に近代的な金融機関である第八十七国立銀行ができたのは明治一一年のことであった。同行は明治五年に制定された国立銀行条例に依拠した銀行であった。国立銀行制度の狙いは二つあった。一つは、幕末以来の混乱した貨幣制度を整理して近代的な貨幣制度を打ち立てることであり、今一つは、近代的産業を育成し発展させるために、民間に殖産興業資金を供給することである。同条例の制定とともに第一国立銀行以下四つの国立銀行が設立されて営業を開始したが、これらの銀行は狙い通りの役割を果たすことができなかった。というのは、こうである。国立銀行は銀行券を発行する特権を有していたが、通貨の信用を維持するために、発行する銀行券は金と交換できる兌換券でなければならなかった。そのために国立銀行は資本金の四割を正貨(金貨)で払い込んでそれを兌換準備とすることを義務付けられていた。ところが、国立銀行設立以降も政府は財政資金を補填するために、不換紙幣を増発していて、紙幣価値が下落していた。そのため、国立銀行券もすぐに兌換(金貨と交換)請求を受け、事実上発行困難に陥ったからである。兌換券による紙幣整理も資金供給もできなくなった。
 そこで政府は国立銀行条例を改正して、発行する紙幣を不換紙幣とし、資本金の二割を政府紙幣、残りは公債を資本金に当てることができるようにした。政府の公債で国立銀行に出資できるようになったわけである。この改正は殖産興業資金を積極的に供給させるとともに国立銀行を救済しようという目的以外に、もう一つ重要な狙いがあった。それは、秩禄処分のために政府が交付した公債を銀行資本に転化させることによってその価格を維持しようという狙いである。政府は財政を圧迫していた旧士族層への秩禄の支給を廃止する代わりに士族に公債を交付したが、この公債価格をいかに維持するのかは大問題だった。
 こうした改正によって、国立銀行の設置が容易になるとともに、有利な事業ともなったから、改正後各地に国立銀行が次々に設立されることになった。大橋に設立された第八十七国立銀行もその一つであった。