表40 第八十七国立銀行の主要勘定 | (単位:円) | |||||
年度 | 預金 | 借用金 | 貸出金 | 有価証券 | 積立金 | 利益金 |
明治25年下 | 133 | 156 | 323 | 121 | ||
26下 | 258 | 102 | 340 | 123 | 1 | 5 |
27下 | 350 | 31 | 355 | 128 | 2 | 5 |
28下 | 468 | 71 | 458 | 131 | 13 | 7 |
29下 | 430 | 178 | 568 | 136 | 3 | 10 |
30下 | 245 | 233 | 769 | 148 | 2 | 16 |
31下 | 516 | 281 | 1,092 | 153 | 10 | 18 |
32下 | 675 | 393 | 1,316 | 158 | 20 | 30 |
33下 | 630 | 237 | 1,048 | 187 | 30 | 26 |
34下 | 557 | 143 | 814 | 178 | 36 | 7 |
明治35年上 | 500 | 140 | 706 | 185 | 37 | 2 |
出典:第八十七国立銀行「業務報告書控え」、「門司新報」決算公告 |
預金は次第に増加していたものの、明治二〇年代に入っても資本金よりも少なかった。預金のうち二〇%から三〇%程度が官公預金であった。大橋支店の預金者がどのような人々であったかを明治二五年の資料から見てみると、同年大橋支店では延べ六七名が九〇八八円の定期預金を行っているが、複数の口座をもつ定期預金者がいたから利用者は実質二一名であった。このうち、浦野重徳と片山豊盛(初代行橋町長)だけで大橋支店の定期預金の四三%を占めていた。一方、大橋支店に当座勘定を持つ者は六二名であり、主として行橋地域の地主・商人が利用していた(「みずほ銀行資料」による)。
資金運用を見よう。当時、手形割引は少なく、貸付業務が中心であった。同行の貸付は積極的で、明治一四年に県下最大の第十七国立銀行の六割ほどに過ぎなかった貸付金は一〇年代後半にはほぼ第十七国立銀行と肩を並べるほどであった。預金はそれほど増加しなかったから著しい貸出超過であった。
しかし、同行はこうした積極的経営が崇って、大きな打撃を受けることになった。すなわち、明治二二年以降、とくに明治二三年の恐慌によって多額の資金が固定化し、明治二四年、二五年上期には欠損を出すにいたったのである。表41に示したように、明治二五年三月には、小倉本店貸出の四二%、行橋支店貸出の一九%、全体で貸出金の三九%が滞貸見込みであった。
表41 第八十七国立銀行の滞貸し見込み額 | |||
(単位:円、%) | |||
本店 | 支店 | 合計 | |
貸出高(A) | 353,790 | 56,753 | 410,543 |
滞貸と見込分(B) | 150,064 | 10,706 | 160,770 |
取立見込有分 | 203,726 | 46,047 | 249,773 |
(B)/(A) | 42 | 19 | 39 |
出典:第八十七国立銀行「貸付金調」(『みずほ銀行所蔵資料』) |
どのような人々への貸出が焦げ付いたのかを『福岡県史 通史編 近代産業経済(一)』によって見ると、同行不良債権の多くは旧士族層、とくに当時の重役に貸し出されたものであった。彼らは石炭業や鉄道業、築港など当時近隣で勃興した事業に積極的にかかわっていたのである。これら事業で彼らの多くが躓いたのは石炭業への投資であった。
さて、同行は資金の固定化によって資金繰りに苦しみ、日本銀行や第三国立銀行からの借入金に依存して経営を続けた。明治二四年頃には危機的状況に陥り、安田銀行や第三国立銀行(ともに後富士銀行、現みずほ銀行)を経営する安田善次郎に救済を依頼したものの、支援を得ることはできなかった。結局、半額減資に追い込まれることになった。