小倉商人と第八十七銀行

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 半額減資と同時に株主、経営者が大きく入れ替わった。すなわち、株主は企救郡の人々が多数を占め、経営者には頭取に守永勝助(酒造業)、取締役に守永久吉(呉服太物商)、神崎徳蔵(呉服太物商)、支配人に神崎岩蔵(醸造業)が加わった(前掲表39参照)。守永、神崎は小倉の代表的商人であり、以後第八十七国立銀行は彼らの経営によって日清戦後の北九州の企業勃興に中心的な役割を担っていくのである。
 守永・神崎経営下の同行主要株主を見ておくと、表42のようになる。筆頭株主は旧藩主の小笠原忠忱であるが、守永勝助、平吉、神崎徳蔵が大株主となっていること、行橋地域の有力株主は柏木勘八郎しかいないことが確認できよう。
 
表42 第八十七国立銀行株主名簿(明治29年下半期)
氏名職業など住所株数所有比率
小笠原忠忱華族、旧小倉藩主東京44517.8
守永勝助商人、同行頭取小倉市2138.5
守永平吉商人、同行取締役小倉市1937.7
小沢武雄華族東京1004.0
神崎徳蔵商人、同行取締役小倉市732.9
豊津尋常中学校長 京都郡豊津村632.5
 入江淡    
熊谷直候同行取締役田川郡香春村622.5
佐々木正懋大地主、同行取締役田川郡津野村622.5
豊蚕社総代  542.2
 宮下賢造    
上村延寿同行支配人 512.0
小今井宗治後見人 築上郡宇島町481.9
 小今井正史    
清水可正元頭取小倉市421.7
柏木勘八郎大地主京都郡行橋町411.6
中村郷三郎大地主京都郡諌山村411.6
小笠原神社財産管理者 京都郡豊津村261.0
 入江淡    
平田辰士族小倉市261.0
渡辺長兵衛商人京都市261.0
別府林士族築上郡宇島町251.0
古賀俊蔵生吉銀行頭取生葉郡吉井町210.8
小計  1,61264.5
総株数  2,500100
出典:第八十七国立銀行「株主姓名表」

 ところで、同行は明治三〇年七月、普通銀行に改組され、第八十七銀行と行名を変更した(以下では普通銀行転換前でも第八十七銀行と表記する)。政府は明治一五年、中央銀行として日本銀行を設立し、紙幣発行券を日銀に統一した。国立銀行は日銀設立とともに、紙幣発行の特権を失い、営業満期二〇年をもって処分されることになっていたから、明治三〇年から三二年の間に次々と普通銀行に転換することになった。
 明治二五年以後の第八十七銀行の業況を見てみよう。図8に示したように、同行の貸出は明治二七年頃から増加し始め、日清戦争後の明治二九年から激増している。貸出金の増加に預金増加が追いつかず、借用金が急増していることも同図からうかがえよう。同行はこうした資金需要に応えるために、明治三〇年に一挙に一〇〇万円(払込資本金は三六万二五〇〇円)に増資した。
 
図8 第八十七銀行の預金、借用金、貸出金
図8 第八十七銀行の預金、借用金、貸出金
出典:第八十七国立銀行『業務報告書控え』、「門司新報」決算公告

 日清戦争後、北九州地域は熱狂的な企業設立ブームに沸いた。その企業設立に中心的な役割を果たしたのが守永勝助、平吉や神崎徳蔵、岩蔵らであった。彼らは企業の発起人、重役あるいは大株主として、豊州鉄道、小倉織物、小倉電灯、門司倉庫、金辺鉄道、小倉築港、門司石炭取引所などの設立にかかわった。そして、こうした企業活動を資金面から支えたのが同行であったと考えられる。
 今一つ、同行が深くかかわったのは石炭業であった。同行は明治二七年に門司支店を設置していたが、翌年の一〇月には本店を門司に移し(明治三〇年には再び小倉を本店にしている)、石炭商などに積極的に資金供給を行っている。
 こうした貸出金は明治三一年と三四年の恐慌によって多くの企業が破綻したために、その多くが焦げ付いた。不良債権の多くは石炭業者と守永、神崎ら当時の経営者に対する貸出金であった(『福岡県史通史編 近代産業経済(一)』)。
 今、その状況を見ておくと、筑豊炭鉱株式会社に対する貸金一万三五〇〇円は、同社が倒産したため回収できなくなったし、石炭商・中山金三郎に対する二万七六〇〇円ほどの貸金も中山が行方不明になって焦げ付いたままであった。また、糸飛炭鉱を経営していた石炭商の松尾敏章への貸金も経営破綻後、回復の見込みなく回収の目途が立たなかった。第八十七銀行の支配人であり、平恆(ひらつね)炭坑を山本周太郎らとともに経営していた神崎岩蔵への貸金も、神崎が新炭鉱の開削に失敗して回収されることはなかった。
 こうして同行はこれらの資金の固定化によって一気に危機的状況に陥ったのである。