守永・神崎経営下の同行主要株主を見ておくと、表42のようになる。筆頭株主は旧藩主の小笠原忠忱であるが、守永勝助、平吉、神崎徳蔵が大株主となっていること、行橋地域の有力株主は柏木勘八郎しかいないことが確認できよう。
表42 第八十七国立銀行株主名簿 | (明治29年下半期) | |||
氏名 | 職業など | 住所 | 株数 | 所有比率 |
小笠原忠忱 | 華族、旧小倉藩主 | 東京 | 445 | 17.8 |
守永勝助 | 商人、同行頭取 | 小倉市 | 213 | 8.5 |
守永平吉 | 商人、同行取締役 | 小倉市 | 193 | 7.7 |
小沢武雄 | 華族 | 東京 | 100 | 4.0 |
神崎徳蔵 | 商人、同行取締役 | 小倉市 | 73 | 2.9 |
豊津尋常中学校長 | 京都郡豊津村 | 63 | 2.5 | |
入江淡 | ||||
熊谷直候 | 同行取締役 | 田川郡香春村 | 62 | 2.5 |
佐々木正懋 | 大地主、同行取締役 | 田川郡津野村 | 62 | 2.5 |
豊蚕社総代 | 54 | 2.2 | ||
宮下賢造 | ||||
上村延寿 | 同行支配人 | 51 | 2.0 | |
小今井宗治後見人 | 築上郡宇島町 | 48 | 1.9 | |
小今井正史 | ||||
清水可正 | 元頭取 | 小倉市 | 42 | 1.7 |
柏木勘八郎 | 大地主 | 京都郡行橋町 | 41 | 1.6 |
中村郷三郎 | 大地主 | 京都郡諌山村 | 41 | 1.6 |
小笠原神社財産管理者 | 京都郡豊津村 | 26 | 1.0 | |
入江淡 | ||||
平田辰 | 士族 | 小倉市 | 26 | 1.0 |
渡辺長兵衛 | 商人 | 京都市 | 26 | 1.0 |
別府林 | 士族 | 築上郡宇島町 | 25 | 1.0 |
古賀俊蔵 | 生吉銀行頭取 | 生葉郡吉井町 | 21 | 0.8 |
小計 | 1,612 | 64.5 | ||
総株数 | 2,500 | 100 | ||
出典:第八十七国立銀行「株主姓名表」 |
ところで、同行は明治三〇年七月、普通銀行に改組され、第八十七銀行と行名を変更した(以下では普通銀行転換前でも第八十七銀行と表記する)。政府は明治一五年、中央銀行として日本銀行を設立し、紙幣発行券を日銀に統一した。国立銀行は日銀設立とともに、紙幣発行の特権を失い、営業満期二〇年をもって処分されることになっていたから、明治三〇年から三二年の間に次々と普通銀行に転換することになった。
明治二五年以後の第八十七銀行の業況を見てみよう。図8に示したように、同行の貸出は明治二七年頃から増加し始め、日清戦争後の明治二九年から激増している。貸出金の増加に預金増加が追いつかず、借用金が急増していることも同図からうかがえよう。同行はこうした資金需要に応えるために、明治三〇年に一挙に一〇〇万円(払込資本金は三六万二五〇〇円)に増資した。
日清戦争後、北九州地域は熱狂的な企業設立ブームに沸いた。その企業設立に中心的な役割を果たしたのが守永勝助、平吉や神崎徳蔵、岩蔵らであった。彼らは企業の発起人、重役あるいは大株主として、豊州鉄道、小倉織物、小倉電灯、門司倉庫、金辺鉄道、小倉築港、門司石炭取引所などの設立にかかわった。そして、こうした企業活動を資金面から支えたのが同行であったと考えられる。
今一つ、同行が深くかかわったのは石炭業であった。同行は明治二七年に門司支店を設置していたが、翌年の一〇月には本店を門司に移し(明治三〇年には再び小倉を本店にしている)、石炭商などに積極的に資金供給を行っている。
こうした貸出金は明治三一年と三四年の恐慌によって多くの企業が破綻したために、その多くが焦げ付いた。不良債権の多くは石炭業者と守永、神崎ら当時の経営者に対する貸出金であった(『福岡県史通史編 近代産業経済(一)』)。
今、その状況を見ておくと、筑豊炭鉱株式会社に対する貸金一万三五〇〇円は、同社が倒産したため回収できなくなったし、石炭商・中山金三郎に対する二万七六〇〇円ほどの貸金も中山が行方不明になって焦げ付いたままであった。また、糸飛炭鉱を経営していた石炭商の松尾敏章への貸金も経営破綻後、回復の見込みなく回収の目途が立たなかった。第八十七銀行の支配人であり、平恆(ひらつね)炭坑を山本周太郎らとともに経営していた神崎岩蔵への貸金も、神崎が新炭鉱の開削に失敗して回収されることはなかった。
こうして同行はこれらの資金の固定化によって一気に危機的状況に陥ったのである。