同行は経営を立て直すために、北九州近辺、とくに行橋の資産家に株主として加わってもらうと同時に、彼らを取締役に迎えた。明治三四年には行橋の大地主である柏木勘八郎と福島甚六が取締役に、長野盛徳が監査役に就いた(前掲表39参照)。
しかし、資金の回収は思うようにいかず、預金も減少して万事休し、解散か合併かを迫られることになった。経営陣は合併を選択し、百三十銀行と交渉して仮契約に漕ぎ着けた。この可否を決するために、明治三五年八月五日、株主総会に先立って、行橋の安楽亭で株主協議会が開かれた。四十数名の参加者中合併反対は二名であった。八月一七日、最後の株主総会が同じく安楽亭で開かれ、百三十銀行への合併が決定した。行橋で生まれた第八十七銀行は行橋で幕を閉じることになったのである。合併条件は、第八十七銀行が資本金一〇〇万円を四分の一、つまり二五万円に減資した上で合併する、というものであった。第八十七銀行株四株で第百三十銀行株一株が交付されたわけである(以上は「(株)八十七銀行合併関係書類」による)。第百三十銀行へ合併後、行橋支店は第百三十銀行行橋支店と名を改めた。
ところで、第八十七銀行を吸収合併した第百三十銀行とはどのような銀行であったのであろうか。同行は本店を大阪に置き、合併当時資本金は二八五万円、預金は一一三九万円に達する銀行であった。当時、同行は大阪では住友銀行に次ぐ預金高を誇っていたのである。同行を率いたのは松本重太郎であった。松本は当時、「関西実業界の帝王」と言われていた人物で、百三十銀行を拠点にして大阪紡績、日本紡織、山陽鉄道、南海鉄道、阪堺鉄道、日本精糖、明治銀行、大阪興業銀行などの社長を務めたほか多数の企業の重役を兼任していた。融資を通じて多くの企業とかかわっていたわけであるが、積極的な貸出のためには何よりも資金量を増やさなければならなかった。そのために、明治三一年以降、第百三十銀行は小西銀行、第百三十六銀行、大阪興業銀行、西陣銀行、福知山銀行、そして第八十七銀行を次々に合併していった(以上は、石井寛治「百三十銀行と松本重太郎」東京大学『経済学論集』第六十三巻第四号、一九九八年一月を参照)。
松本がわざわざ北九州の銀行を合併したのは、松本の事業とかかわっていた。松本は北九州の石炭業や鉄道業に投資し、行橋に本店を置く豊州鉄道の社長を務めるとともに、安川敬一郎が社長を務める明治炭坑の監査役でもあった。第八十七銀行合併はこうした事業の展開と不可分の関係にあったと考えられよう。
⇒「大橋村 行事村 宮市村見取図」を見る…旧百三十銀行行橋支店