明治三七年六月一七日、強勢を誇った第百三十銀行が臨時休業した。同行が深くかかわった日本紡織が経営悪化から破綻し、懸念した預金者が同行に殺到して、預金支払いに応じきれなくなったからである。すでに同行は日本紡織をはじめ、京都の織物業者、そして松本自身への巨額の融資が焦げ付いて、内情は火の車であった。再建に当たった安田善次郎の査定によれば、貸出一一五九万円のうち実に四五五万円(貸出の三九%)が回収不能と見込まれていた。日露戦争中の破綻である。日本有数の大銀行の破綻が戦時経済に悪影響を与えることを懸念した政府は、臨時休業を発表する前に、同行の救済を「銀行王」安田善次郎に依頼した。安田は調査の上いったんは謝絶したが、政府筋から再度懇望され、政府資金の供給が約束されたため再建を引き受けることになった。こうして第百三十銀行は安田系の銀行として再建されることになった。
大正一二年、この第百三十銀行は安田銀行、第三銀行など安田系一一行の大合同に参加した。新安田銀行は日本最大の預金と店舗網を擁する銀行となった。この合同にともない、同行の行橋支店は安田銀行行橋支店と名を改めることになる。