表44 行橋に進出した諸銀行 | (単位:千円) | ||||
銀行名 | 本店住所 | 設立年 | 資本金 | 支店設置年 | 備考 |
安田銀行行橋支店 | 東京 | 大正12年 | 150,000 | 大正12年 | 百三十銀行の支店を継承 |
小倉貯蓄銀行行橋出張所 | 小倉 | 明治28年 | 30 | 明治28年 | 明治36年解散 |
中津貯金銀行行橋支店 | 中津 | 明治28年 | 30 | 明治32年 | 明治43年解散 |
中津共立銀行行橋支店 | 中津 | 明治25年 | 500 | 明治39年 | 行橋草野銀行を合併、明治41年破綻 |
田川銀行行橋支店 | 後藤寺 | 明治32年 | 100 | 大正元年 | 大正9年休業、翌10年同支店閉鎖 |
京和銀行行橋出張所 | 東京 | 明治33年 | 3,000 | 大正10年 | 大正11年休業、大正14年破産 |
北豊銀行行橋支店 | 八屋 | 昭和3年 | 670 | 昭和3年 | 昭和17年十七銀行に吸収合併 |
十七銀行行橋支店 | 福岡 | 明治10年 | 10,200 | 昭和17年 | 昭和20年、他3行と合併し、福岡銀行新立 |
出典:『福岡県統計書』、大蔵省『銀行総覧』、全国金融統制会「金融機関業態調」、「門司新報」 | |||||
備考:資本金は支店設置年度の公称資本金 |
小倉貯蓄銀行は第八十七国立銀行の子銀行である。当初門司貯蓄銀行として明治二八年一〇月門司で開業し、小倉、香春、行橋の第八十七国立銀行の支店、出張所内に店舗を設けた。第八十七銀行が小倉に再び本店を戻すとともに、本店を小倉に移し小倉貯蓄銀行を名乗った。明治三一年下半期の預金高は小倉本店七万五九一五円、門司出張所二万二〇三六円、行橋出張所四万〇七一三円、一人平均預金高は小倉で二二円九七銭、門司五円五一銭、行橋三一円六八銭であった(「門司新報」明治三二年二月一一日)。貯蓄銀行は比較的零細な貯蓄預金を取り扱う機関であったが、行橋ではかなり平均預金額が多いことがうかがえよう。これら預金はほとんどすべてが第八十七銀行に預金された。したがって、第八十七銀行の破綻とともに同行も営業停止を余儀なくされ、再建されることもなく明治三六年三月解散した。
中津貯金銀行は中津共立銀行の子銀行であった。設立後、同行は預金吸収のため、椎田、八屋、後藤寺、行橋など京築や田川に支店を次々開設した。多くの貯蓄銀行同様、同行も親銀行の資金調達機関であったと考えていい。親銀行の中津共立銀行は中津の商人たちによって設立された銀行で、大分県内では大分町の二十三銀行に次ぐ資本金規模であった。行橋のほか田川にも進出するなど、積極的な貸出を行ってきたが、明治四〇年五月株式投機の失敗に端を発して、他銀行からの資金回収(為替尻の回収)や預金取付けにあい、子銀行の中津貯金銀行ともども破綻した(『銀行通信録』)。
大正元年一二月に行橋支店を開業した田川銀行は、炭鉱業者の蔵内保房が頭取を勤める銀行であった。炭鉱業と深い関係を持ち、店舗網を地域周辺に拡張していった。大戦期の積極的貸出政策によって、預金貸出とも激増した。表45に示したように、同行は大正八年地元の地方銀行としては福岡銀行(現行の福銀とは別の銀行)、嘉穂銀行、十七銀行に次ぐ預金量を誇っていた。しかし、大正九年、第一次大戦期の熱狂的な好況後の恐慌で休業を余儀なくされた。貸出金六〇〇万円のうち二〇〇万円が蔵内関係の貸出金であった、と当時の新聞は報じている(「福岡日日新聞」大正九年一二月二一日)。
表45 預金規模別銀行数(大正8年) | (単位:千円) | |||
預金規模 | 銀行名 | 預金額 | 銀行名 | 預金額 |
1000万円以上 | 福岡 | 30,427 | 嘉穂 | 15,206 |
三井支店 | 21,708 | 十七 | 12,458 | |
住友支店 | 20,698 | 第一支店 | 10,519 | |
百三十支店 | 18,225 | |||
1000-500 | 田川 | 8,761 | 鞍手 | 7,343 |
500-200 | 三池 | 4,143 | 柳河 | 2,673 |
遠賀 | 3,470 | 壱岐 | 2,614 | |
浪速支店 | 3,006 | 農工 | 2,426 | |
京和支店 | 2,908 | 不動貯金支店 | 2,404 | |
三瀦 | 2,879 | 古賀支店 | 2,227 | |
報徳支店 | 2,755 | 山口支店 | 2,170 | |
200-100 | 14行 | 20,958 | ||
100万円未満 | 65行 | 18,714 | ||
出典:『福岡県統計書』 | ||||
備考:太字は管外支店銀行。数値が異常な共栄貯金銀行を除外して算出 |
休業時、同行行橋支店の預金貸出金はそれぞれ、二七万円、二五万円であり、同行の休業は行橋商工会に大きな影響を与えた。商工会では桑野定五郎、肥田源太郎、福島八三郎、山田五郎吉、亀山清太郎を委員として善後策を練ったが、同行は資金回収も捗らず、再開業はおろか預金者への支払いも容易に進まなかった。翌年の三月以降、各地で預金者集会が開かれた。三〇〇円までの預金は即日全額払い戻し、それ以上はしばらく猶予するという条件で預金者の合意を取り付け、四月二五日から払い出しを開始した。この資金は回収資金と蔵内家が提供した小倉鉄道債権六一万円、同行持株一二五万円、同行預金四二万円など合計二三〇万円が用いられた。この払い戻しを機に行橋支店は閉鎖されることになった(以上は「門司新報」、「福岡日日新聞」の記事による)。
京和銀行は東京に本店を置き、東京以外に多くの店舗網をもつ貯蓄業務兼営の銀行であった。大正八年には全国に一四支店を展開していたが、そのうち五支店が福岡県にあった。当時、好況に沸く北九州地域に多くの銀行が進出した。その中で高金利を売りものにして多額の貯蓄性預金を集めたのが東京の報徳銀行、京和銀行、共栄貯金銀行などであった(表45参照)。高利で預金を集め、高利で中小企業者などに運用していたこれらの銀行は、大正九年の恐慌後、いずれも苦境に陥り、相次いで破綻していった。京和銀行も大正一一年一二月支払いを停止し、大正一四年には破産した。この間、行橋商工会では同行本店と直接交渉し、五〇円以下の全額払い戻しなどを実現したが、破産するまでにどれほどの預金が払い戻されたのかは明らかではない。
北豊銀行は後述する築上郡の銀行合同によって昭和三年に設立された銀行であり、設立の翌年、行橋に支店を設置した。同行が昭和一七年十七銀行に吸収されたため、支店業務は同行支店に引き継がれた。
最後に、進出しては消えてゆく支店銀行の中で、名前を変えながらも脈々と営業を続けた安田銀行(第八十七国立銀行→第八十七銀行→第百三十銀行)支店について見ておこう。表46は昭和初期の同支店の預金、貸金、純益を見たものである。これによれば、貸金は預金の二割弱、昭和七年以降になると一〇%以下で、その額も年々減少している。同支店はまったくの預金店舗であったわけである。その預金も減少気味であった。長年の不況のため預金も貸出も振るわなかったのである。したがって、利益も上がらなかった。
表46 安田銀行行橋支店の預金、貸金、純益 | (単位:千円、毛) | |||||
項目 | 昭和3年 | 昭和4年 | 昭和5年 | 昭和6年 | 昭和7年 | 昭和8上期 |
預金平均残高 | 2,337 | 2,158 | 1,960 | 2,031 | 2,096 | 2,252 |
預金平均利率 | 118 | 114 | 111 | 114 | 123 | 114 |
貸金平均残高 | 390 | 415 | 360 | 235 | 129 | 136 |
貸金平均利率 | 220 | 208 | 195 | 199 | 230 | 195 |
本店為替尻預け金平均残高 | 1,938 | 1,733 | 1,594 | 1,791 | 1,952 | 2,114 |
純益 | 10 | 12 | 10 | 8 | 13 | 5 |
出典:みずほ銀行所蔵資料 |
昭和九年八月、同行は行橋支店を廃止した。より正確に言うと、系列の十七銀行に中津支店とともに行橋支店を譲渡し、その見返りに十七銀行長崎支店を譲り受けることとした。こうして安田銀行支店は十七銀行行橋支店となった。安田銀行にとっては、預金吸収も侭ならない小店舗を整理し、重工業化で一歩早く景気が回復しつつある都市で店舗を展開することがより重要であったのである。