福岡銀行の成立

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 多くの銀行が破綻するにつれ、政府は銀行の規模を拡大することによって、銀行を安定させるという政策をとった。いわゆる銀行合同政策がそれである。この合同政策は地方中小工業の存在を考慮して、都市銀行による地銀の吸収ではなく、地方銀行合同政策として展開された。福岡県でも合同によって次第に銀行数は減少し、明治三三年の八五行から昭和五年には三五行となっている。とくに銀行数が減少しだしたのは昭和二年の金融恐慌後であった。政府は最低資本金規模を大幅に引き上げて、それに満たない銀行(無資格銀行)は昭和七年以降営業できないとする銀行法を制定した。半数近くの銀行が無資格銀行であり、政府は単独の増資は認めない方針をとったから、一気に銀行合同が進展した。
 京築地域では、築上郡に角田銀行(角田村、払込資本金九万五〇〇〇円-以下同様)、椎田銀行(椎田村、三〇万円)、築上銀行(八屋町、二一万円)、宇島銀行(宇島町、一四万円)、千束銀行(千束村、一〇万八〇〇〇円)、八屋銀行(八屋町、四五万五〇〇円)の諸銀行が営業していたが、いずれも無資格銀行であった。県当局と大蔵省、日銀はこれらの銀行に合併を促し、昭和三年これらの銀行は北豊銀行(八屋、築上、宇島、千束各行の合併)と椎田合同銀行(椎田、角田、三貸金会社の合併)の二行に再編成された。このうち、北豊銀行は成立とともに、行橋に支店を設置した。
 銀行合同は戦争の拡大とともにさらに進展した。日中戦争や太平洋戦争に対処するため、国家総動員体制が作られたが、金融機関に課せられたのは、軍需企業に資金を供給することと公債を消化すること、預金をひたすら集めることであった。軍需企業への資金供給は都市銀行や日本興業銀行などが担当し、地方銀行は地方の平和産業への運用を厳しく制限され、専ら預金吸収と公債消化に専念することを余儀なくされた。小規模銀行ではこうした低利の公債運用に堪え得ないので、政府・日銀は地方銀行のさらなる合同を求めて、一県一行主義を打ち出した。各県の銀行をほぼ一行にしようというのである。この方針の下に、福岡県では十七銀行(本店福岡)を中心に統合が進められ、昭和一七年、椎田合同銀行、北豊銀行、鞍手銀行が同行に買収された。
 昭和一八年、福岡の銀行は十七銀行のほか、筑邦銀行(本店久留米)、嘉穂銀行(本店飯塚)、福岡貯蓄銀行(本店福岡)、武石銀行(本店二日市)の五行を残すだけになっていた。個人銀行とも言うべき零細銀行の武石銀行を除く四行の合同はもめにもめた。その原因は最大規模の十七銀行が安田財閥の傘下にあったからである。資金繰りを十七銀行に依存していた嘉穂銀行は同行との合併に異存はなかった。しかし、独立性の強い筑邦銀行や福岡貯蓄銀行、さらには地方銀行を育成したい福岡県が十七銀行との合併の条件として、十七銀行の安田財閥からの離脱を求めた。これに対し、安田財閥は断固拒否した。結局、十七銀行を安田財閥から離脱させるが、代表権のある頭取は安田側から出すなどとする妥協が図られ、四行は新立合併に合意した。一九四五年、この合意に基づいて福岡銀行が成立した(日本銀行金融研究所『日本金融史資料 昭和続編』付録第四巻による)。この結果、十七銀行行橋支店は福岡銀行行橋支店と名称変更した。