質屋

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 行橋には銀行以外に様々な金融機関が活動した。戦前期、庶民にとって銀行は縁遠い存在であり、庶民が主として利用したのは質屋や無尽や金貸しなどの金融機関であった。昭和期になっても、農民の最大の借入先が個人金貸しという状況から見て、貸金業を行う人々はかなりいたと考えられるが、統計的には確認できない。また、無尽・頼母子講も多くの人々が参加していたであろうが、これも確認する術はない。そこで、ここでは質屋について見ておこう。
 表47は京都郡の質屋業の推移を見たものである。この多くが行橋にあったのではないかと考えられる。同表によると、明治二〇年頃二三店舗あった質屋は次第に減少し、明治三八年には一一軒になっているが、貸出口数、貸出金高は二〇年に比べるとかなり増加している。一口当たりの貸出金は二円に満たない零細なものであった。受け戻さないで流してしまう比率は、明治期にはきわめて低くなっている。庶民が衣服などを質に入れて当座の生活費を手に入れ、その衣服の必要な季節がやってくると受け戻すという状況がうかがえよう。
 
表47 京都郡の質屋業の推移
年度店数年間貸出高(円)年間貸出口数(口)一口当り貸出金(円)流れ金高(円)流れ口数(口)流れ比率(%)
明治20年2317,31526,6860.657691,3384.4
明治35年1833,95925,5481.332,1011,3526.2
明治36年1439,89530,0431.331,6869864.2
明治38年1138,33128,1551.363072230.8
明治43年2136,17921,5661.685,6435,55915.6
大正4年1740,47116,0872.527,7123,07319.1
大正9年1047,1106,4237.338,70393718.5
大正14年685,5798,8559.6617,8662,10420.9
昭和5年470,51410,8146.5213,3722,32419.0
昭和10年552,06813,5233.8516,3934,32331.5
出典:『福岡県統計書』

 明治末期以降を見ると、明治末期に一時店数は増加したが、以後一貫して減少し、昭和五年にはわずか四店舗となっている。しかし、この間貸出金は増加の一途をたどっている。貸出口数は第一次大戦期に大幅に減少したが、不況の影響を受けて昭和期には大きく増加した。とくに変化が大きかったのは流質金の比率であり、明治期には数%に過ぎなかったその比率は、昭和一〇年には三一%に跳ね上がっている。貸出金の三分の一近くが返済されなかった勘定である。これは庶民の窮迫を如実に示しているとともに、質屋業経営も圧迫されていたことを示している。受質の減少は何よりも貸付原資の減少をもたらして経営を苦しくしたし、流質品の処分は価格下落によって大きな損失を生み出したに違いないからである。