無尽会社

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 質屋が庶民に身近な金融機関であったとすれば、無尽(頼母子)や無尽会社(営業無尽)は中小零細商工業者が最も依存した金融組織、機関であった。無尽というのは、一定の口数で組を組織し、定期的に掛け金を払い込ませ、抽選または入札によって加入者に毎回一定の金額を給付し、それをまた定期の払い込みの方法で償還し、全掛け金が全加入者に給付されて満会となる仕組の金融組織である。営業無尽はこの方法をそのまま踏襲したもので、業者が講元となって組織し、手数料を収益とするのである。
 明治末から大正初期にかけて、慢性的な不況の下で、福岡県内外で営業無尽が次々に設立され、行橋にもその一部が進出してきた。共済貯金株式会社(本店後藤寺、資本金一万円)がそれである。同社取締役に行橋の米原七兵衛が名を連ねている。営業無尽は当初法的規制がなかったが、加入者保護のために大正四年政府は無尽業法を制定して、免許制や取締役の無限責任、最低出資金の制定、余裕金運用方法の制限など厳しい法的規制の下に置いた。この結果、無尽業者は激減したものの、比較的規模の大きい健全な無尽会社が設立された。これらのうち、行橋に進出したのは、共済貯金会社の継承会社である共済無尽と博済無尽であった。両社支店は合併によって名称を変更しながらも行橋で営業を続けた。
 共済無尽はもともと後藤寺や飯塚の商工業者によって大正元年後藤寺を本店に設立され、翌年飯塚と行橋、八屋に支店を設置した。無尽業法の制定を契機に、無尽共済貯金会社と名称を変更して本店を飯塚に移転、大正六年には共済無尽と名を改め、本店を直方に移した。さらに翌大正七年には共福無尽と改称している。たびたび名称を変更した理由は定かではない。大正一〇年代に鞍手銀行から資金供給を受けたのを契機に、鞍手銀行系の石井徳次、瓜生譲、堀寛平などが取締役に就任している。
 博済無尽は博済貯金会社をその前身として、大正六年に設立された。前身の博済貯金は嘉穂銀行の監査役などを務めていた有田広を中心に嘉穂郡の大隈町で設立された。開業後間もなくして経営が苦しくなり、大手炭鉱業者であり、嘉穂銀行の頭取でもあった麻生太吉に救済を求めた。麻生は無尽業を有望と見て、同社を引き受け、嘉穂銀行の他の重役とともに取締役に就任した。以後同社は嘉穂銀行の子会社として発展していくことになる。行橋には昭和九年に支店を設けた。
 この両者は昭和一八年、政府の金融機関統合策に従い合併して九州無尽株式会社(資本金一〇〇万円、本社福岡)を設立した。翌一九年末、同社は福岡県内の三池、共立、南筑、西日本の各無尽会社と合併し、西日本無尽会社を設立した。同社設立に中心的役割を果たしたのは野村銀行(後大和銀行、現りそな銀行)である。大蔵省の了承のもとに各社を説得し、福岡無尽を除く各社がこれに応じ合同することになった。資本金は三一〇万円で、総株数の五八%を野村銀行が所有した。こうして野村銀行系の巨大無尽会社が誕生した。いうまでもなく、行橋の九州無尽の支店は西日本無尽の支店に衣替えした(以上『西日本相互銀行二十年史』)。