最後に郵便貯金について述べておきたい。行橋で郵便貯金が取り扱われるようになったのは明治一四年からであった。明治二二年で預金者は六八二人、貯金額は四八五九円で、一人当たり貯金額は七円であった。以後、図9に示したように、貯金者数も貯金高も急速に伸びた。このように郵便貯金が増加したのは、一つには明治三〇年代民間の普通銀行や貯蓄銀行が次々に破綻したためである。銀行破綻の報道や噂が流れるたびに、人々は銀行から預金を引き出して郵便貯金に預け入れた。郵便貯金は最も安全な貯蓄機関であったのである。今一つの増加要因は、政府が積極的な貯蓄奨励策をしばしば展開したからであった。政府は国民が経済的に疲弊すると勤倹貯蓄奨励を村ぐるみ、町ぐるみで推進させ、郵便貯金に預けさせていった。こうした運動と官営の安全性とがあいまって、郵貯は人々が最も利用する貯蓄機関となっていった。
郵貯がとりわけ増加していったのは、昭和二年の金融恐慌後と日中戦争以後の戦時期であった。前者の時期、人々は預金通帳を片手に争って銀行に走り、預金を引き出し郵便貯金に預け換えたといわれている。ただ、行橋では五大銀行の安田銀行支店しかなかったため、こうした預け換えはそれほどなかったのではないかと考えられる。一方、戦時期に急増したのは、いうまでもなく、政府による半ば強制的な貯蓄奨励運動のためであった。
なお、政府の金融サービスとして郵便貯金とともに、重要な役割を果たしたのは郵便為替であった。大正五年、行橋局では振出が一四万三〇〇〇円、払出が九万二〇〇〇円あり、福岡や北九州の郵便局並みの利用額であった。家計間の送金や小口の商業取引に利用されたと考えられよう。