清酒醸造業と醤油醸造業はわが国固有の産業であり文化である。しかし残念ながら、行橋市域の醸造業の歴史を明らかにするまとまった史料はない。そこで、さまざまな文献によって市域の醸造業の一端を紹介しておこう。
明治期の新聞記事には時々市域の清酒業についての記事が散見する。また『福岡県全誌』に、「山本忠蔵 明治一二年一一月開業 清酒焼酎」とある。明治期末の清酒業を最もよく紹介しているのは『駅勢一覧』(九州鉄道管理局、明治四五年)である。これによると、和酒の生産者として、肥田武市(行橋町)・肥田五郎(同)・山本忠蔵(同)・森本(延永村)・浜田(今元村)・肥田(千田の誤)(同)が上げられ、明治四二年一年間の生産数量六一二トン、うち行橋駅から門司・小倉・戸畑および油須原(ゆすばる)・添田・金田(かなだ)方面に発送される数量が一四三トンとなっている。送出される清酒は、駅まで町内のものは四斗樽四個を積んだ荷車によって、周辺村からは四斗樽九個を積んだ馬車によって運ばれた。
しかし、その後、北九州工業地帯の形成や筑豊石炭鉱業の発展にもかかわらず、行橋の清酒業は徐々に衰退に向かった。「町勢要覧」から行橋町の清酒の生産量を見ると、年間一八四八石(大正一四年)、二六七石(昭和七年)、七〇〇石(同一三年)となる。
昭和六年に福岡県酒造組合に加盟していたのは、肥田五郎(行橋町、菊寿)、肥田源太郎(同、菊重・玉乃川)、山本斉(同、山菊)、千田太一郎(今元村、正菊)、浜田功(同、須佐桜)であったが、一一年末に浜田酒造工場(今元村、浜田功)、千田酒造工場(今元村、千田太一郎)、肥田酒造工場(行橋町、肥田一郎)の三工場は、いずれも一〇人の男子職工を雇用する工場法適用工場であった。