明治四二年の醤油業について、前掲『駅勢一覧』によって見よう。生産者は、林田(行橋町)・玉井(同)・大地(池の誤)(同)・中野(同)・森友(今元村)・奥(同)とされ、生産量二一三トン、うち一五〇トンが四斗樽六個を積んだ馬車で、後藤寺・伊田方面、あるいは犀川・豊津方面に輸送販売された。
醤油醸造高は、その後、大正一四年二〇一〇石、昭和七年一一三〇石、一三年一五一五石と推移する。明治末期からいったん上昇し、昭和期に入り減少停滞する。
昭和初期の行橋市域の醤油同業組合加盟者は、富士本龍之助(行橋町)、玉井美知穂(同)、大池千太郎(同)、中野吉蔵(同)、銅崎格市(同)、林田リキ(同)、森友忠彦(今元村)、村田千治(同)、奥村彦一郎(今川村)、野本市太郎(泉村)、原田権蔵(仲津村)、森下善吉(同)であるが、『豊前大鑑』(昭和一一年)には平川繁太郎の名も見える。
ともあれ戦前期において、福岡県内における行橋市域の醸造業の地位は高いものではなかった。