豊州鉄道は第三章で記述されるように、明治二三年に免許の下付を受け、二八年に行橋-伊田間が開通した。豊州鉄道工場は行橋駅構内に建設され、同社工務課の下の付属工場であったから、本来は豊州鉄道の項で取り上げるべきであるが、行橋地方最大の工員を雇用した工場であったので、便宜的にここで扱う。
豊州鉄道は開業と同時に自社の「鉄道用具製造及修繕」のための工場設立を企図した。工場の設立は明治二九年一月であった(『日本鉄道史』)。トタン葺き、板囲いなどの仮工場で操業し、ようやく明治三一年完成したが、同年五月当時の職工数は一二三人であった。
完成後の工場は、工務課長加治万治郎を工場長とし、鋳物室、鍛工室、木工室、組立室、模型室、修繕室などから構成された。職工数は定雇夫を含め、四〇〇人に達し、米国製一〇輪の機関車四台を始め、客車、炭車などの組み立てを行っている。
明治三二年には「運輸事業の発達、車両の増加に伴ひ、工場の規模を拡張するの必要を生じ、一棟の大工場を新建するの計画あり」といわれている。しかし豊州鉄道は石炭鉱業の景況に強い影響を受けていたので、実現はしなかったかもしれない。
豊州鉄道は明治三四年九月三日には九州鉄道株式会社と合併したため、工場も九州鉄道行橋工場となった。さらに四〇年七月一日、鉄道国有法により、九州鉄道は国有化され、工場も帝国鉄道庁から鉄道院管轄下の工場に移行した。