鉄道院行橋工場

178 ~ 179 / 840ページ
 九州鉄道管理局の行橋工場について、明治四五年の新聞は次のように報じている。
 
近来各種の点に於て要するに現状維持という有様にて、別に目立ちたる新施設を為(な)せる事又為すあるなし、主もに車両の修繕並に豊州線に要する線路用品を製造するものにて、昨四十四年度に於ける車両の修繕高は、機関車八十六台、客車二百四十台、貨車二千百零二台、合計二千四百廿八台に及び、此外車両の新造を絶対に為さゞるに非ざるも、近来は新造したる事なし、工場は旋盤、組立、仕上、模型、鍛冶、製缶、鋳物、木工、塗工、縫工の十種に別れ、目下七百七十人の職工を使役し居れり
(「門司新報」明治四五年五月二三日)

 
 豊州鉄道時代と比べると、旋盤、仕上、製缶、縫工工場などが新たに設立され、職工も二倍近く増加し、八〇〇人近い労働者を雇用する大工場であった。
 車両の新造は行わず、修繕組立工場であったことは、豊州鉄道時代と変わっていないが、修繕車両数は非常に増大している。修繕状況を整理すると、表49のようになる。国有化後、行橋工場の修繕高も生産高も漸増し、職工数は著しく増加している。
 
表49 行橋工場の修繕高と職工数
年度職工数機関車客車貨車合計
 台数修繕高台数修繕高台数修繕高生産高
(人) (円) (円) (円)(円)
明治40618      291,517
  41552      301,649
  425875693,82015936,2411,46595,282305,135
  436207699,27022536,1081,86493,811314,465
  446888695,64924040,5802,428103,761331,153
大正1913      387,859
出典:「門司新報」明治45年6月1日。同大正2年8月13日
注:修繕高は円以下4捨5入。明治44年貨車台数は原文のママ

 地域経済に及ぼす工場の影響度が極めて大きいことについて、明治四五年半ばに植田久逸工場長は次のように豪語しているが、かなり的を射ていたであろう。
 
職工に支払ふ一日一人の平均給料は五十七、八銭にして、現在職工数七百七十人の一ヶ月の総額は約一万三千四百円なるが、此職工は殆(ほと)んど附近の町村にて農商業其他に生業を営める家庭の人多ければ、随って給料の大部は各町村に分布され、疲憊(ひはい)せる其地方の経済状態を救済しつゝあるものにて、加之(しかのみならず)工場の約六十人の職員及び職工の臨時雇に支払ふ金額も亦大なれば、当工場が此地方の経済状態に及ぼす影響は決して軽視すべがらざるものあり
(「門司新報」明治四五年六月一日)

 
 しかし行橋工場は、大正三年一二月八日早朝、木工場から出火し、工場五棟、機関車二〇台を全焼する大火に見舞われた。この火事により、行橋工場の業務は多く、若松・小倉両工場に移された。