鉄道院行橋工場の廃止

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 大正五年になると、九州鉄道管理局は行橋工場を廃止して小倉工場に合併することを決定した。火事が原因であったか否かは不明である。長尾局長によると、従来、行橋工場は鉄道院直轄であったが、前年の四年に九州鉄道管理局の管轄になったので、「小倉に比較的大工場の設置されたる以上、行橋の如き枝葉工場の存在は鉄道経済上不利益なるを以て之を撤廃」すると述べた。
 かくして大正五年一一月三〇日をもって豊州鉄道以来の行橋工場は閉鎖された。この影響が行橋町と周辺農村に及ぼした影響は多大なものがあった。
 
影響は第一行橋の各商店にして、之に次ぐは稗田、黒田、白川、延永、小波瀬、今元、蓑島、泉、仲津、祓郷、豊津、今川等の附近村落にて約七、八百名の職工雇人等を出し居りて各自工場に働き、家族は農業に就きおりしが故に、今更農業を止めて小倉に転任も為し難く、さりとて通勤は其時間と往復の車賃との為めに不可能なり、早晩農事専業となるか、小倉に転住するかの其一を選ばざるべがらざるの止むなきに立至れり
(「門司新報」大正五年八月三〇日)

 
 これに対し長尾局長は、雇用者はいたずらに解雇はせず、小倉工場に転勤させ、通勤乗車券を交付するので、二、三〇分早起きするだけの辛抱であるとした。しかし兼業農業者にとっては大きな問題となったであろう。
 工場跡地は入札に附され、東京の医学博士で飛行船製作や電気炉などの兵器研究を行っていた岸一太が落札した。その後さらに安川敬一郎が購入して、明治紡績行橋工場となった。