行橋電灯の発起人と設立経過

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 行橋電灯設立が話題となったのは、明治四二年の末か四三年の一月であった。柏木勘八郎の「柏木日記」四三年一月一七日の記録に「行橋電灯会社創立ノ件ニ付、小倉ノ松井、妹尾、広田三氏来訪」とあるので、この時に創立の話が具体的に論じられているのは確かである。五月二〇日の新聞「門司新報」には「行橋電灯会社の創設」、七月二〇日には「行橋電灯株式会社の発起」という記事があり、設立計画は順調に進展したことがわかる。
 行橋電灯の発起人は「定款」によると次の七人であった。
 
福岡県小倉市馬借町六十番地妹尾万次郎
同県同市魚町百四十七番地松井辰三郎
同県同市京町百五十八番地友枝只四郎
同県同市米町四十二番地海保芳吉
同県同市船頭町六十九番地広田久太郎
同県京都郡行橋町大橋二千八百六十三番地柏木二郎熊
同県同郡同町行事千百五十三番地福島貞次郎

 
 柏木、福島は地主としても著名な地元の有力者であり、筆頭発起人の妹尾は精米業、酒造業、醤油醸造業などを営み、小倉電灯および九州電気軌道株式会社の発起人、取締役で、市会議員も務める小倉の有力者であった。広田は小倉電灯の取締役兼支配人、海保も同社の監査役であった。
 これより先、明治四一年、小倉市に本社を置く九州電気軌道株式会社(九軌)が創立され、四二年、大阪電灯門司支店と小倉電灯を買収した。小倉電灯の株主総会では甲論乙駁の議論の結果、売り渡すことに決定し、妹尾、広田と小倉選出衆議院議員の古賀庸蔵を清算人に選出した。妹尾、広田を中心とする小倉電灯の旧役員は、同社の円滑な清算を図り、役員等に支払われた一万一〇〇〇円の慰労金などの再投資先のため、行橋電灯の設立を企画したものと思われる。
 「門司新報」(明治四三年五月二〇日)に「設立認可を得たる行橋電灯会社は、九電(九軌)会社と交渉の結果、昨年九電に買収したる旧小倉電灯会社の機械類一切を譲受の契約整ひたる由」とあるように、行橋電灯は不要になった小倉電灯の設備一切の引き受け先とし設立されたのである。この中には、旧小倉電灯が設備拡張のために会社売却直前に東京高田商会を通して米国ウエスチングハウス社に注文していた発電機も含まれていた(「門司新報」明治四二年六月二九日)。