第 | 弐条 本会社ハ福岡県京都郡行橋町ヲ区域ト定メ、電灯ヲ供給シ其点火料ヲ収得スルヲ以テ営業ノ目的トス |
第 | 参条 本会社ノ商号ヲ行橋電灯株式会社ト称ス |
第 | 六条 本会社ノ資本金ハ拾万円トシ、之レヲ弐千株ニ分チ、壱株ノ金額ヲ五拾円トス |
第 | 四拾七条 会社設立ノ際、発起人ノ引受クヘキ株数ハ千五百株ニシテ、残リ五百株ハ一般ヨリ募集ス |
行橋電灯は、当初、町内の電灯供給だけを目的として設立された。資本金は一〇万円で、四分の三は発起人で引受け、残り三分の一の五〇〇株だけが公募された。
創立総会時の主要株主は表50の通りである。発起人だけで一五〇〇株を持つことになっていたが、この内訳は地元の柏木、福島で七五〇株、小倉側で七五〇株となっていたと思われる。なぜなら、「株式引受申込証」によると、稗田村の末松房泰分一五〇株は柏木の出資金であった。
表50 創立時主要株主(明治43年11月) | |||
氏名 | 住所 | 株数 | 備考 |
柏木二郎熊 | 京都郡行橋町 | 250 | 取締役社長 |
福島貞次郎 | 同 | 250 | 取締役 |
広田久太郎 | 小倉市大阪町 | 150 | 専務取締役 |
妹尾万次郎 | 同 馬借町 | 150 | 取締役 |
友枝只四郎 | 同 堺町 | 150 | 監査役 |
海保芳吉 | 同 米町 | 150 | 監査役 |
末松房泰 | 京都郡稗田村 | 150 | |
松井辰三郎 | 小倉市魚町 | 120 | |
長野盛義 | 京都郡行橋町 | 100 | |
肥田源太郎 | 同 | 52 | |
村岡益章 | 同 豊津村 | 52 | |
津田ツネ | 遠賀郡戸畑町 | 30 | |
肥田五郎 | 京都郡行橋町 | 22 | |
下村與助 | 京都市東洞院 | 22 | |
高田常松 | 京都郡犀川村 | 22 | |
河野久吉 | 同 行橋町 | 15 | |
和田又八郎 | 同 苅田村 | 15 | |
米原七兵衛 | 同 行橋町 | 15 | |
真鍋行蔵 | 小倉市馬借町 | 15 | |
陣山律蔵 | 京都郡今元村 | 11 | |
泉庄太郎 | 同 行橋町 | 11 | |
土屋浅吉 | 小倉市魚町 | 11 | |
出典:「行橋電灯株式会社第一回報告書」(行橋電灯会社書類) |
株主総数は七三名、そのうち行橋町居住者は四八名で六五・八%を占め、町内居住者持株は総株数二〇〇〇株のうち八九〇株、四四・五%であった。このほか現在の行橋市域である稗田村、今元村、蓑島村の株主が六名、一八二株あったから、これらを合わせると、株主数だけでなく株数でも過半数を超えた。ちなみに小倉市居住の株主とその株数は、八名、七四九株であった。
役員はすべて発起人がなり、地元で筆頭株主の柏木が社長に、小倉電灯で取締役支配人の経験がある広田が専務に就任した。表50の役員の他に、当初、村岡益章が取締役であったが、開業前の四三年一一月に辞任している。村岡は築上郡長、企救郡長、小倉市長を歴任し、当時旧藩主小笠原家の家扶であった。おそらく株式一般公募の信用を得るための人事であったと思われる。あるいは小笠原家の出資を期待したのかもしれない。
役員数では旧小倉電灯関係者が多かったが、行橋電灯は名実ともに地元の会社であったと言える。