九水と九軌の両社から買電することにより、水火併用発電と同様な効果を期待したのであろう。また水力発電にのみ依存した場合、不時の渇水や洪水の危険が大きいため、これを避けようとしたものでもあったろう。
しかし、それ以上に現実に差し迫った問題があった。
従来本社所用ノ電力ハ前陳ノ如ク九州水力電気株式会社ヨリ需用致シ来リシ処、元来同社ハ諸方ニ対スル送電ニ付テハ予定ノ「ボルト」ヲ出ス能ハス、一般ニ光力薄弱ニシテ、需用家ノ苦情頻繁、寔(まこと)ニ困難ヲ極メタ |
(第一六回報告書) |
という状況である。この問題を解決するため、大正七年五月一日より、九軌からも広く買電を開始し、「茲(ここ)ニ始メテ充分ノ光力ヲ見ルニ至」ったという。
しかしこのことは九水の市場政策にとって大きな脅威となったと思われる。九水は北九州市場をめぐって九軌と一方で連携しながら、他方で激しく競争していた。また福岡市に本社を置く九州電灯鉄道株式会社が福岡県西部から佐賀県、長崎県に市場を拡大するのに対し、九水は日田水電、大分水電、豊後電鉄を配下に収め、東九州に市場を拡大していた。九水は行橋電灯に対する九軌の影響が増大することを防がなければならなかった。
九水は行橋電灯に合併を打診した。行橋電灯では大正八年に入り、九水と数回の内談を行い、正式の申込みを受けて慎重に合併条件を検討した。その結果、大正八年四月六日に九水との間で仮契約書を交換し、五月五日、株主総会を開催して合併を決定し八月五日に解散した。
合併によって九水から払込済五〇円株三〇〇〇株が行橋電灯に交付された。行橋電灯では、五〇円払込済旧株二〇〇〇株に対しては九水五〇円払込済株一・二株、また一二円五〇銭払込新株に対しては九水株〇・三株の割合で割り当てた。八年上半期の配当率は、九水一割、行橋一割三分であったが、下半期には九水も一割二分としたから対等な合併であった。
行橋電灯株式会社の経営は順調であったが、行橋地域に近代的照明と動力をもたらすという使命が果たされた以上、もはや小規模電灯会社の時代が終わったことを認めざるを得なかったのである。