明治紡績の設立

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 筑豊において明治・赤池・豊国炭鉱を経営していた安川敬一郎も、日露戦後に紡績業に進出する。安川は日露戦争によって炭鉱業で巨大な利益をあげただけでなく、鉄道国有化によって二七〇万円にも上る剰余金を得た。この資金を基に、遠賀郡戸畑町の牧山下の埋立地に明治紡績合資会社を、また大阪大和川に大阪織物合資会社を設立する。明治紡績合資会社は、松本健次郎を代表社員とし、資本金一〇〇万円で明治四一年八月に創立された。紡績機械は当時英国で評価が高く、大阪紡績も使用したプラット社製を採用した。安川の計画は三万錘であったが、鈴木の意見に従い、職工等の事情から当初は紡績機四三台、一万六一二八錘でスタートした(『松本健次郎懐旧談』)。
 紡績業の経営は安川敬一郎の「宿願の一つ」であったと、その子松本健次郎は懐旧談の中で述べている。安川は、紡績会社の設計を、安川松本商店神戸支店長安川謙介の兄鈴木守蔵に依頼した。鈴木は福島紡績の取締役をした後、当時大阪合同紡績会社の取締役兼技師長であった。また欧米視察旅行から帰国したばかりの同郷人で遠縁の平賀義美にも相談した。平賀は工学博士で、当時大阪工業試験所所長として紡績業にも明るかった。