行橋工場の設立と発展

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 明治紡績は大正三年には規模も当初予定の三万錘となり、生産量も当初の四四万貫から八五万貫に倍増した(『北九州市史』)。第一次大戦の戦時経済によって紡績業は好況を謳歌し、明治紡績も順調に業績を伸ばした。明治四五年の第二工場の建設により戸畑が手狭になったため、一層の工場拡大を行橋町に求めた。大正七年六月二七日付の「門司新報」は次のように報じている。
 
戸畑の安川家は予(かね)て豊前行橋町元九管工場上手に一万余坪を購入し居り、其後接続地一万余坪を買増して合計三万坪を所有し居たるが、更に先頃岸博士の購入に係る元九管工場及敷地を最近同家に買収して、結局四万坪の地積を得る事となり、同家は此に明治紡績の分身たる紡織工場を設立するに決し、既に行橋駅前に事行所を設け、着々計画を進めつゝある

 
 この元九管工場とは九州鉄道管理局の工場跡地のことであり、さらにその前身は行橋停車場構内に建設された豊州鉄道会社の製作工場であった。
 行橋工場は、戦争により紡績機械が輸入できなかったため、まず紡織工場として機数三〇〇台を据え、工女は通勤し得る付近町村より約三〇〇名を募集する予定(「門司新報」)で、大正八年設立された。紡織工場では、主として三幅金巾綿布を生産した。
 紡績業の開始は行橋工場設立以来の悲願であった。新聞によると、第一次大戦後の大正一〇年に、紡織工場の裏手に紡績工場のための地ならし工事が完成し、工場二五〇〇坪、附属建物二五〇〇坪の大建築計画に着工しようとした。しかし、戦後恐慌のため計画は先延ばしされた。
 戦時中の好況が大きかっただけに反動も大きく深刻であった。行橋工場にようやく紡績工場が増設され、稼働を開始したのは恐慌後の昭和七年であった。ハイドラット精紡機を据付け、行橋工場の織布用原糸の供給を開始した。
 
写真19 明治紡績行橋工場
写真19 明治紡績行橋工場