戦時体制における紡績会社の整理統合

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 昭和一二年七月に盧溝橋に始まった日中戦争は徐々に拡大し、経済も戦時統制を強めていった。主要産業である紡績業も、資金調整や物資動員計画に強く規制されるようになった。一三年になると、設備の新増設、綿糸販売価格、綿製品製造、原綿輸入なども統制の下に置かれた。
 昭和一五年、第二次近衛内閣が発足するとますます戦時体制が強化された。一一月、大日本紡績聯合会は統制の強化を図るため、中小紡績会社を整理し、五〇万錘を最小として企業統合を行い、全体を一四ブロックに集約することを決定した。
 安川清三郎の次男安川真はこの時の明治紡績について「撫松会会報」(『松本健次郎伝』所収)に次のように記している。
 
我が明治紡績は会社の内容もしっかりしてゐるし、お祖父さま(安川敬一郎)の精神を守つて独自の存在を続けてゐる会社で、他の会社と合併する必要もなければ、また合併を望みもしなかつたのです。しかし聯合会で決定した以上はそれに従はなければなりません。しかも明治紡績の錘数は十三万余です。どうしても他の会社と合同することが必要でした。そこで一緒になるべき相手を選ばなければならぬことになりました。

 
 種々検討の結果、明治紡績は福島紡績との合併を選択した。福島紡績は明治二五年、大阪府西成郡伝法村に資本金一〇万円の有限責任伝法紡績会社として設立され、翌年同郡福島村に移転して、福島紡績株式会社と改称した伝統ある会社であった。昭和一四年末の福島紡績は、資本金一六〇〇万円(払込一一二〇万円)三五万七〇〇〇錘、撚糸錘数三万三六〇〇錘、織機二〇四〇台の中規模会社であった。
 明治紡績行橋工場は昭和一六年六月の合併により、そのまま福島紡績(現、敷島紡績、通称シキボウ)行橋工場となった。