安川航空電機の設立

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 戦局も押し詰まると、福島紡績行橋工場は操業を停止したようである。安川家は遊休設備となった行橋工場を再び「奪還」した。
 後の安川電機製作所取締役の安川泰一が当時「撫松会会報」に寄せた手記は次のように述べる。
 
十七年も暮近くなつて、愈々行橋工場が今度熊本にできた三菱の航空機工場の部分品工場に転用されるらしいといふ話が伝へられてきた。……私が十八年の一月中旬に上京した時に私の事務所に兼二郎氏の置手紙があつて、ぜひ立上がらうといふことが慎重な筆致で書き記してあつた。……行橋工場譲受について福島紡績に内交渉を開始してみると、なかなか事は順調に運ばず、第一交渉に応ずる気色もないのである。一時は殆(ほとん)ど絶望かとも思はれたが、つひに九月に入つて正式交渉に応じようというところまで事が運び、十一月末にやっと調印を終つた。

 
 戦争激化の昭和一九年、安川電機社内でも「尽国精神の発揚には電動機生産だけという間接的軍用品供給では不十分」との意見が大きくなった。その結果、他のメーカー同様、安川電機も軍の指導の下、電気技術を役立てるべく、昭和一九年四月、買い戻した福島紡績行橋工場跡地に安川航空電機株式会社を開業した。
 この安川航空電機は、三菱電機の関連工場としてその生産割当てを受け、安川電機の技術によって、航空基地用の発電機や飛行機搭載用のスイッチなどの生産を同年八月から開始した。作業には、社員のほか、学徒動員の女子挺身隊員があたった。しかし、激しい空襲で、三菱電機の本体工場の被災による原料と資材不足のため、思うような生産活動はできなかった。
 結局、この工場で終戦までに生産されたのは、航空基地用発電機七〇〇台と飛行機搭載用スイッチ二万五八〇〇個だけだった。
 昭和二〇年八月の終戦翌日から工場は休業し、一部残留社員が安川関連製品の製造やポンプ類製造など手がけたものの、経営の見通しが立たなかった。遂に昭和二一年三月末、安川航空電機は安川電機製作所へ吸収合併され、同行橋工場となった。