行橋製氷の初期の状況は次の報告によく示されている。
日東対各社共競争販売ノ結果欠損ヲ続ケタリシモ、七月一日(大正一五年)日東並ニ各社共協調ヲナシタルト高温持続ノ結果、欠損ヲ補填シ尚ホ幾分ノ利益ヲ見タルモ、本社ハ漁港ニアラザルタメ、春秋ノ両期ニ於テ需用減少ノタメ貯氷庫増設ノ必要ヲ認メ |
(「第二回決算報告」) |
右のように、大正末期になると、北九州地方でも製氷工業では激しい企業間競争があり、場合によっては協調(販売カルテル)が行われた。日東については明らかでないが、前に記した関門製氷は、大正三年に東洋製氷と合併した当時日産一〇〇トンの製氷機を設備していたから、行橋製氷の規模では競争は困難であっただろう。
行橋製氷は、天候に大きな影響を受けていて、毎期の「決算報告」は天候の状況にかなりの字数を割いている。降雨と気温の高低は販売を大きく左右した。また漁港のような有力市場を近辺にもたなかったため、大分、宮崎両県下および博多、八幡の大都市販売店の開拓に努力している。しかしこれは輸送費の増大を余儀なくされ、大都市同業他社との競争上弱点となったであろう。
こうした制約の中で、行橋製氷は大きな発展を遂げることはできなかったが、堅実な経営を行ったものと思われる。昭和一三年や一五年の「町勢要覧」でも、行橋町の工業を代表する企業として挙げられている。しかしこの頃の経営状況を示す史料はない。
ちなみに昭和一一年の県内製氷会社の状況を見ると、日本食料工業株式会社(資本金二〇九七万円、本社東京)が突出しており、戸畑事業支所、第一工場(福岡市)、飯塚営業所、小倉工場で製氷を行っていた。その他では八幡製氷所、筑紫水力製氷所、大牟田製氷株式会社が一〇人弱の工員を擁していた。