「町勢要覧」に見る行橋町のクルマ

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 戦前の行橋町の「町勢要覧」は、大正一四年を始めとして、昭和四年、七年、一三年が残っている。これによって戦前の行橋町の交通手段と交通業を見てみよう。整理すると表2のようになる。
 
表2 戦前期の行橋町のクルマ(台)
 人力車自転車自動車客馬車荷馬車荷車その他
通常自動乗用貨物用自動三輪
大正14年62748182876267581,257
昭和4年231,05612114 493407 1,610
昭和7年231,23613308 2102401 1,817
昭和13年61,454145725097487 2,122
出典:各年「町勢要覧」行橋市史編纂室所蔵

 注意しておかなければならないことは、大正一四年の自動車や自転車は、それぞれ細目が区別されていないこと、統計は徴税のためのものと思われ、営業用と自家用が区別されていないことである。
 大正一四年から昭和一三年の一四年間に、人力車は六二台から六台まで急減する。しかし前に記したように、消滅してはいない。客馬車は昭和恐慌期に急減し、一三年には完全に消え去っている。これに対し、自転車は七四八台から一四五四台と二倍近く増加した。昭和一三年の町内戸数は約二九〇〇戸であったから、二軒に一台まで普及し、日常生活に必要不可欠な交通手段となった。乗用自動車も二・五倍に増加した。ほとんどが営業用であったと思われるが、タクシーとバスは区別されていない。
 自転車とバス・タクシーが人力車と客馬車に取って代わっていったことをよく示している。昭和四年の「町勢要覧」は次のように記している。
 
 最近発達ノ著シキモノハ、本町ヲ中心トシテノ自動車網ニシテ、郡内到ル処殆ムト(ほとんど)自動車ノ運行セサルナク、一般ノ便益多大ナリト雖(いえども)、其ノ反面人力車ハ勿論客馬車殆ムト其ノ影ヲ潜ムニ至レリ

 
 荷馬車・荷車と貨物用自動車と自動三輪では、営業用と自家用の比率は不明である。おそらく大正末期から貨物用自動車が町内を走るようになり、昭和一〇年代から自動三輪が急速に増加する。しかし、輸送用自動車の出現と増加は荷馬車と荷車を駆逐してはいない。荷馬車と荷車もわずかながら増加している。『京都郡町村名鑑』によると、昭和一一年当時の京都郡荷馬車組合加盟者は二〇名で、行橋町二、椿市村、延永村、稗田村、今川村、泉村、今元村、仲津村各一である。おそらく物資の流通がそれだけ増大していたものと思われる。