行橋町のバス

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 行橋町を最初に走ったバスについての正確な記録はない。『犀川町誌』の藤河則松の回想が行橋のバスについての最初の記録であろう。昭和二年に行橋-帆柱(現犀川町)間の乗合自動車の営業を開始し、藤河バスと呼ばれた。自動車はフォードやビュイックの外国車を使用した。バスは運転者も含めて八人乗りの小さなものであったが、米一俵一〇円六〇銭の当時で、一台一二〇〇円した。行橋-伊良原間がおよそ一時間、行橋-帆柱間が一時間半かかり、料金は帆柱まで二円五〇銭であった。
 我が市に残る昭和初期の写真には幾つものバスの写真がある。五年撮影といわれる蓑島の万川弥七郎所有バス、六年の「中津行橋間定期」の看板を掲げた行橋駅通りの高橋自動車部の一〇数台の自動車、七年頃のものといわれる蓑島の天神屋前の八人乗りのバスなどである。
 
写真3 行橋-蓑島間の乗合バス(昭和5年)
写真3 行橋-蓑島間の乗合バス(昭和5年)

 昭和六年当時、右の高橋自動車部は、行橋-中津間を三〇分毎に定期運転している。また岩辺藤一郎経営の行橋駅前の岩辺自動車商会は、行橋駅から延永、黒田、新町、今元方面行きの定期バスを運行している(『京都郡町村名鑑』)。
 昭和初期の行橋駅前は蓑島タクシー、坂田タクシー、山田タクシー、祇園タクシーなどのタクシーとともに、多くのバスが行き交った。