昭和初期の行橋のバスはすべて個人経営であったと思われるが、昭和一〇年、法人組織の豊前バス組合が設立された。豊前バスに関する史料は、福岡市博物館が所蔵する「柴田治道資料」の中にある。
豊前バス組合は、永島伝太郎(飯塚市飯塚)・中尾松太郎(同)・田原亀太郎(同)・赤坂猛(同)・高松常吉(嘉穂郡二瀬町)・梶原耕輔(宗像郡河東村)・辻田広士(嘉穂郡稲築村)・重岡篤(福岡市大名町)の八名の共同事業として設立された。出資額は永島一万五七五〇円、中尾・田原一万二七五〇円、赤坂・高松・梶原七五〇〇円、辻田六〇〇〇円、重岡五二五〇円、合計七万五〇〇〇円で、本社を行橋駅前(行橋町宮市三五八番地)に置き、営業は吉田文翁(飯塚市徳前)に委任された。もっとも出資金はすべて出資額相当の担保品を差し入れ、嘉穂銀行から五万円、信用組合から二万五〇〇〇円を借り入れたものであった。
組合は高橋経営の行橋-中津間、恒成経営の椎田-中津間、永島経営の八屋-中津間のバス営業権を、それぞれ三万七〇〇〇円、一万四〇〇〇円、一万円で買収し、「福岡県京都郡行橋町ト大分県中津市トノ間ニ於ケル一定路線ニ依ル貨客ノ自動車運転事業」を開始した。昭和一一年初頭には最新鋭の一九三五年式バス一〇台を含め、バス一四台を保有していた。
「昭和一一年分営業純益金額追加申告書」によると、一月から三月までの四カ月間で、収益は旅客収入二万一一〇円を含め二万一七三円九七銭、支出はガソリン代三七〇九円一五銭、給料三六六五円〇九銭、自動車償却金二七〇八円五一銭、支払利子二〇七〇円六〇銭など合計一万八八六六円七九銭で、差引益金が一三〇七円二八銭となっており、順調な経営を行っていた。
豊前バス組合はその後豊前バス匿名組合と改称されたが、昭和一一年三月三一日をもって解散し、資産と負債はすべて新たに設立された豊前バス株式会社に引き継がれた。「豊前バス組合契約証書」によると、組合は設立当初から「第十九条、本組合の存立期間ハ豊前バス株式会社設立ノ時迄トス」とされており、組合は豊前バス株式会社設立のための母体であった。